うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

高額な瞑想にハマっている友人を心配する人との話

ヨガ友からの相談がきっかけ。こういう話について意見を求められたり、なにか知らないかと聞かれたりすることがちょいちょいあります。答えはいつも同じなので、どなたかの参考になるやもしれぬということで、ここで書いてみます。
こういうメニューはレストランのようにたくさんある。メソッド化しようと思ったらわたしにもできてしまうのではないかと思うくらい、たくさんあります。



きっかけは、こうでした。



ヨガ友:ねえねえ瞑想って習ったことある? 友だちが習い始めたのだけど、だいたいいくらくらいなのかなと思って。


うちこ:わたしの場合はお寺で習っちゃったから、瞑想でいくらというのは払ったことがないけど、なんかそういう質問ね。




わりとありがちです。



ヨガ友:友だちがハマっちゃってて。50万円近く使ってる。


うちこ:どんなやつ?


ヨガ友:それが、電話でやったりするらしくて。


うちこ:電話してくれるだけまだ親切かもね。遠隔だとその時間に「送りましたよ」ってだけのもあるから。


ヨガ友:なんか、とめたほうがいいような気がして。そのうちカルトみたいな方向に行ったらどうしようと思って。


うちこ:とめようとしてもとまらないよ。いまはその金額を払う本人の意志も含めてそこに価値が生まれてるから。


ヨガ友:そうそう。たしかに、なんか元気になってるのよ。


うちこ:じゃあいいんじゃない? その人には「あなたのことは否定しないけど、あなたがいまハマっているそれにわたしは同じ価値観をもたないよ」という意思表明がやんわりできていればいいんじゃないかね。


ヨガ友:まー、「いいものだ」といって誘われるってのが次の展開だろうからね。


うちこ:とにかく、とめようと考えてもしょうがない。


ヨガ友:そうそう、15年前くらいには、うちこちゃんのブログでも紹介されてたあの本を書いた人(あえて伏せます)にハマッてたって子なの。


うちこ:あれはまあいまは普通なんじゃない? と思うけど、15年前だと、まだクンダリーニ色が残っていたかもしれない頃だね。


ヨガ友:能力開発とか、そういうのに惹かれる傾向だわ。


うちこ:一貫してるね。能力があると思っているんだ。掘れば出てくると。


ヨガ友:思い出したらほかにもいっぱい・・・。



「占いに通う」「瞑想に通う」となるとひときわカルトな香りがするのはなぜでしょう。
「カルト」という単語自体は、そもそも高額なものや価値を販売するという意味ではないのだけど、みんなそういうイメージで使っています。
消費者金融や友人に借金しまくってまで、ということになると話は別ですが、先に書いたとおり金額については「その額を払う本人の意志も含めて、そこに価値が生まれている」という状況です。
お寺へ行けば、坐禅や瞑想の手ほどきをしてくれる場所がたくさんある。でも、その人はその金額のそれを選んだのです。
このヨガ友と「まあいったら、(ヨガをしている)わたしたちだって・・・」「そういう目で見る人いっぱいいると思うよ」「あんまり高くないだけでね」「そうそう」という話もしました。




 「その金額のそれを選ぶわたし」という状態を選んでいる



のであり、金額は



 「それを選ぶわたし」が持参したお金



でしかないので、金額を否定するとその人をも否定してしまうことになりかねません。
そういう意味で



 「あなたのことは否定しないけど、あなたがいまハマっているそれにわたしは同じ価値観をもたないよ」という意思表明をやんわりとしながら、いつもどおりにする




というのがよいのかなと。
わたし自身の友人にも似たような状況があったりします。
わたしの場合は、もう相手もわたしの考え方を多少わかっているので




 「なるほどね。で、そのあとどうなるの?」




という聞き方をするわたしに「こいつ、マーケット・リサーチとして聞いてるな」というのがじわじわとバレたような感じになり、その話はされなくなる。わたしも深追いはしない。



こういう話はこれから増えていくと思います。
はじめて友人からそんな話を聞いた人は、「うわぁ」と思っちゃうだろうと思います。
瞑想でも占いでも気功でもホストでも、「高い金額を払ったなりに気持ちよくさせてくれる」と思っているうちは、きっとよいのです。
「とめよう」とあなたが思うタイミングよりも、本人が「うすうす金額と対価(気持ちよさ)にギャップを感じているかもしれないとき」に、ちょっと自然のきれいなところや食事や温泉にでも一緒に出かけてみたらいい。
そしてまたそっとしておく。地盤が固まるまで待つ。地盤がゆるいときに引っ張っても、あとの心が育たない。
自分のこころに日の当たる方角がどこかは本人にしか感じられないから、光を求める行動はとめられないんじゃないかな。
ロマンティックが止まらないのと一緒。