うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「体癖 第二巻」(野口晴哉 著)から、体癖のとらえかた

ここ連日「体癖 第一巻」「体癖 第二巻」を紹介してきましたが、今日は「第二巻」からそのとらえ方について印象に残った部分を紹介します。
「第二巻」を読む前に「第一巻」を読んだほうがよいのは確かなのですが、「体癖はいくつも混ざっている状態の方が多い」という認識に至ってからの「第二巻」の展開のほうがしっくりいく。
その濃さ(高潮低潮)のことや男女の性差についても語られているこの第二巻こそが真骨頂。そんなふうに思います。
「第二巻」の紹介の末尾に「芸術的な側面がある」ということを書きましたが、まさにこの二巻ではそれが絵の具の原色に喩えられています。
型については腰椎や背骨で語られるので日常的な喩えがないのですが、個人的にこれは「表現として行き着く技法」のようなものだと理解するとわかりやすい。緻密で精巧なのか、印象派なのか、キュビズムか、デザイン的なのか、プロモーショナルな関係デザインなのか。描くのか彫るのか、引っ掻くのか。立体なのか平面なのか。そんな違いと同じようなイメージでいます。
野口先生は音楽を愛好していたので、ここは音楽に喩えられていましたが、人によってはそれを文章表現に感じる人もいるかもしれません。


先に身体についての全体論の中から三つ。

<43ページ 体癖談義 より>
 学者は筋肉の中にある筋紡錘の働きによると説明しているが、そうだろう。姿勢の偏りは大脳の或る部分に筋紡錘信号を余分に送り込んでその働きを歪ませる。それ故、或る姿勢のもたらす心的状態を外から見ることはそう間違っていることではない。(中略)それ故、大脳の働きは骨格筋の生理又体の偏り運動修正を究めておかないと、何故その人が、その時怒りっぽくなっているのか、なかなか分らない。ここに体癖研究の問題が生ずるのである。
 考える為には手足の末端に力が入った方がよいが、空想は弛めておかないと湧いてこない。直腹筋が硬直しておれば、神経過敏になり苛々しやすい。腹が立つというのはこういう直腹筋の状態を言うのであろう。


(中略)


偏り運動習性を修正して、気質とか性格とか考えられている大脳の偏り運動を修正することも不可能なことではないのである。

冒頭の一文について。筋紡錘(マッスル・スピンドル)については、今年の初めに「開脚前屈への道」のなかで触れましたが、ここで「姿勢の偏りは大脳の或る部分に筋紡錘信号を余分に送り込んでその働きを歪ませる」とある、反対側からの言及に刺激を受けました。
これについては考察を深めたら長文になってしまうのでインスタントに書くと、ヨガで「身体の声に従う」という視点について触れていた矢先に、「身体に歪められる」という逆襲を受けたような感じです。
ここで野口先生は、「身体によって心が歪まされることもあるんだよ。だから、逆のこと(修正)も可能なんだよ」といっている。

<165ページ 配分表に表われる決断の状況 より>
潜在意識の無意識に連想する方向は、体が決め、体によって決まっていく。だから誰かが次にどういうことを連想するかというようなことは、その人の体をみればわかるのです。

野口先生の哲学は、体上位と心上位の往復のしかたがたまらない魅力。ぼやっと書かないで、寄るときはその視点に徹するところがかっこいい。

<176ページ 体量配分とその人の生活 より>
 私は体量配分を研究していて、風邪をひくと体量配分の偏りが正常になるのだと今まで思っておりましたが、最近ジオログラフをつけて調べてみましたら、これは正常になった時に風邪をひくのです。体量配分の変化の過程で、偏りが起き、それが正常になる時に風邪をひく。また、風邪の経過した後はもちろん正常を保つようになる。結局正常になろうとする動きが起きた時から始まるのです。

仕事で気が張っているときは発熱できない。ご褒美のように発熱がやってくる。
しょっちゅう風邪をひく人のことを「気がたるんどる」というような意識で見る人がいると思うのだけど、「弛緩上手なヨギ」のようで、うらやましい。「気が張り続けてる」ほうが、なんだか心がカタい女みたいで、身体まで硬くなりそう。発熱できると「ヤッター☆」と思う。



さて。
ここから型や種の話です。

<212ページ 上下型との複合体癖 より>
複合体癖にもいろいろありますが、本当をいえば、人間は全部の体癖的なものを内蔵しているのです。体量配分で前に力が入らないと言っても、それで行動力なしとは決められないのです。左右に力が偏る、右型だといっても、右が圧倒的に思いというわけではないのです。その割合いがあるのです。その割合いいでいけば、どの型にもそれがあてはまる。自分で自分を分析させると、ありとあらゆる体癖があるように思って、「私は上下型です。だが三種です。七種のような処もあります。九種もあります。前後もあります。私は一体どれが本当の体癖でしょうか」ということになりますが、みんな本当だと言えるのです。ただその中の割合で、どれが一番濃いか、その代表を摑まえて何々型何種というのです。

いまどの割合が濃いか。これは相当な読解力や観察力が必要だと思いますが、ひとつ確実にいえることがある。
女の子は、恋をすると六種が濃くなるんですよ。うふふ。
女性の恋愛上手って、やっぱり自分の中の六種をどう楽しめるか、だと思うんです。宇野千代さんの本を読めばわかります。
男性男子の場合は、自分の中の二種をどう突き放すか。かな。女性サイドからはそのように感じます。


別のところで、こう書かれていました。

<94ページ 潜在体力が発揮される方向 より>
体癖の原色の中でどれが一番自分に濃く働いているか、どれとどれの体癖が濃く働いてこういう状態を作っているのかということを見つけ出さないと、本当には判らないのです。

いま、なにがいちばん濃いか。野口先生の本ではあまり時間の感覚はないのだけど、日々変わる。
うちこは腰椎ではわからないのですが、プレッシャーを受けている人の背骨の変化でそれを学びました。プレッシャーの種類によって、尖る位置が違う。
ものすごいバッシングを受けた人は胸椎三番が急激に尖ったりするし、諸先輩の中にいて足を引っ張れない舞台を控えているといったプレッシャーの中にある人は、胸椎五番のあたりが周りの筋肉とともに鉄板のようになる。(周りにダンサーとか人前に出る仕事の人がいるので、マッサージをすると喜ばれるついでに、話を聞きながらみている)


ここからは、混じりについての記述です。


 「ひとりの人の中に二つ以上の体癖が混るということは珍しくない事です」


ヤヌスの鏡みたいだねぇ(古い)。
さっき「恋をする女の子は六種が濃くなる」と書いたのですが、わたしはこれとこれを持っています、というよりも、「いつもは持ってないんだけど、いま六種持っちゃってんだよね」という感じととらえています。
こういうことを、くわしく説明されています。

<63ページ 何型何種と何種何型の違い より>
 よく何型何種とか、何種と何種の混りとか申しますが、例えば上下型三種というのは、体の格好は上下型的であるが、感受性は三種ということであり、三種と二種の混りという場合には、高潮期に三種傾向を呈し、低潮期に二種傾向を呈するというように、体周期律によって二つの体癖傾向が交互に濃く現われることを示しているのです。だから何型何種と言うのと、何種何種と言うのは、表現の違いではなくて実体が違うのです。三種と二種の複合は、その体型は捻れ型になりますが、本来の捻れ型とは異なるのです。
 みなさんも、御自分の体周期律をお確かめになるとお判りになると思います。

たとえばわたしの場合だと、「右重心で下半身が右に捻れた捻れ型九種、低潮期は八種の構成比が増える。妙に七種に好かれるので、自分の七種が出てくる余地がない」ということになる。そういう、カレーの調味みたいな細かさがある。
型については、ヨガはわかりやすくていい。これは、右のほうがやりやすいとかそういうことではなくて、「こういわれたのに、なぜそう動く?!」みたいなときです。
具体例を書くと、「(腕を上げながら)かかとと頭のてっぺんを話して、背骨を長く、伸びをして」といわれて、何割かの人はいったんつま先に乗って背伸びをする。物理的な「背骨を伸ばす」説明よりも、「伸びをする」=「自分がいままで伸びをするといったらこうだ、の動き」をやらずにははじまらない。おもしろいくらい、毎回やってる。
ヨガ友に「あのひと、権威的なのが好きそう」と言ったら「お医者さんだって」と言われてものすごくおかしかったのだけど、そういうことが、ヨガだとしれっとわかっておもしろい。物理的な説明を忠実に身体に反映できる弁護士さんなんかは、「かっこえー」と思う。
左右差がわかりやすいときとわかりにくいときがあるな、というのはヨギの人ならよくわかると思うのだけど、それがわかりやすいときが高潮期なんじゃないかな、と感じています。

<90ページ 人間に於ける矛盾 より>
ひとりの人に種々の体癖がある場合には、それが二つ、三つというのではなくて、例えばえのぐの青と赤を混ぜると、ここまでが赤、ここまでが青というのではなく、やはりそれは紫という色になるように、正反対の体癖が混ったり、奇数とか偶数とかの反撥があったとしても、やはり混ったものは二つの体癖の集まりではない。
その人の体癖そのものが総合的に紫であり、グレーであるというように見るべきだと思っています。

ダール・カレーもチキン・カレーもインドだからってインド・カレーって言うな! と、スパイスの妙味がわかり、そのうえで今日の状態に合わせた配分がひらめくインド人が思うのと同じ。

<236ページ 左右型との複合体癖 より>
体癖が複合すると、原型と違ったものに変わってくるのです。赤と青を混ぜ合わせたら紫色になり、青と黄なら緑色になるというようなもので、原型の赤や青がなくなっている。全部の色が混ってしまったら灰色になったというように、全然違った面が出てくるのです。そしてそこから又原型の体癖を観ていきますと、非常に丁寧に観られる。それ以来、私は体癖は複合するのが当然として、体癖素質や体質を先ず複合しているものとして観ていくようになり、純粋な何種という体癖の特徴が判るようになりました。(中略)それはもう駆け足で行ったのでは本当ではない。いちいち特質を摑まえて、例を引かなくてはならないのです。

「体癖は複合するのが当然」としたうえでの説明がほんとうにすばらしいし、「それはもう駆け足で行ったのでは本当ではない。いちいち特質を摑まえて、例を引かなくてはならないのです。」というのも、よくわかる。人のなかで日々ブレンドも変わるし、暮らしを取り巻く社会も変わる。
そのうえで「ひっかかっていることの一番濃い色は、ひとつ」というところにひょんなことからたどり着いたりする。そういうところが研究の魅力だったんだろうな。

<187ページ 開型との複合体癖 より>
何々種と言っても、それが男の場合であるか、女の場合であるかと思って見る方が本来である。体量配分は殆んど同じ傾向を示すのに、差異がある。だから三種の清濁併せ呑むということでも、男の場合には親分肌になり、良いも悪いも何でも許してしまうけれども、女の場合は、良いも悪いもみんな抱え込んで、自分勝手な状態になってくる。同じ体癖でも男と女では現れ方が違うのです。

女性が女性に見せる三種と、男性と二人っきりのときに見せる三種はものすごく違うのだろうなと、身近な女子を見ていて思います。

<245ページ 男と女の違い より>
男と女というのは、この世の中に於て対立した生きものです。
体そのものが平等に出来ていないのです。女は余分に苦労するように妊娠の機構を持っています。男は余分にたのしみを振りまけるようにできております。その代り男は期限付きである。女は無期限である。そういう面では公平には出来ておりますが、機構が全く違うのだから、平等になどなりっこない。女を平等に使え、給料も平等にしろ、だが産休はよこせ、生理休暇をよこせと言う。どこからそういう理論が出てくるのか、大変むずかしい問題です。

時代の違いはあるものの、身体の機能を語る時の野口先生のこの語りが好き。これは好みの問題かもしれないけれど、ズキューンとときめく。フェミニズムの人が読むと、こういうのはカチンとくるのかな。
当時のフェミニズムのことはよくわからないうちこなのですが、仮にここに野口晴子さんという辛口ヨギーニーがいたとして読んでみてください。

ちょっとその人にキーボードを渡しますよ。

(以下は野口晴子さんのコメントです)


男と女のヨガは、別物。
毎月のように、どうにもならない低調を受け容れることをし続けている女性と比べて、
男性が上昇一筋のヨガに走りがちなのは、
立ち止まるために用意されているものが違うのだから、そりゃそうよ。


別の気持ち悪さについても、同じ。
ちょっと精力がつくと、そもそも種を振りまきたいのが野生なんだから。


でも
ほかの世俗の義務とバランスしたり、世界を広げていたら
たぶんそういう状況が、否が応にもリズムをつくってくれる。


「ヨガを利用して酔っている」のではなくて、「ヨガで出てきちゃった」だけ。
晴子はそれよりも、最近女性にもこの傾向があることのほうが気になりますよ。

(野口晴子さん、ありがとうございました)



今日の紹介は、自分がものを見るときの「体験的なものさし」の種類を気づかせてくれるものかもしれません。
自分はこの分野の専門だと思っていたけれど、実はものの見方はそれ以前のここで養われたものだったのかもしれない。そんなことに気づく人が多いのではないのかと思います。
うちこの場合は、ヨガがきっかけだと思っていたのに、むしろデッサンやソフトボールの練習での試行錯誤がものの見かたに繋がっていたのか、ということに気づきました。
ヨガは、確認の行いだった。新しいと思っていたものが、実はそうではなかったような、そんな心境に至るきっかけになりました。
多感な時期に体験を通じて得たものを思い出すたびに、高校の頃からオタクで、ぜんぜんガラスじゃなかった十代を過ごしていたことに気づかされました。
ガックシ。


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