うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

愉気法1 野口晴哉 著

愉気法1 野口晴哉 著
この本には、晩年の愉気についての講義に加えて、巻末に野口先生が34歳の頃に書かれた「愉気法」についての短い文章が載っています。この、巻末がよい。30代の頃に書かれたものだからだろう。研究が楽しくて楽しくてしょうがないという気持ちがあふれ出ています。そして、ものすごく力強い。
晩年の講義は「勝手に解釈されて、あーあ」という気持ちが垣間見えて、そこも読みどころ。

この本の中で、野口先生は「丹田」の位置について

腰椎三番と臍の中間の処=人間の中心

とおっしゃっています。人間の中心。


関東大震災のとき12歳、終戦のときが34歳、歩行者天国やマイカー時代の始まりのときに69歳、という時代感を持ちつつ読むと面白いです。
先に、34歳のときの「愉気法」から、力強い二箇所を紹介します。

<189ページ 「愉気法」昭和二十年 より>
 宇宙の森羅万象の間隙をコソコソ歩むことを養生のつもりで行っている人もあるが、人間が元気に生きるということの他に、真の養生の道があろう筈がない。青い空は美しいし、満腹は楽しい。こういうことが怖くなり、避けねばならぬことのように考えること自体、不養生というものだ。
 吾々は、活き活きと、生きることだけを以って養生だとせねばならぬ、一時苦しかろうと、痛かろうと、本当の元気を喚起し、活き活き生きるためにはこれに耐え、徹底的に強くなる決心をして生きねばならぬ。一時の苦しさを救うためのセンチメンタリズム医術は、この際方向を向け変えねばならぬ。
 愉気法を用いんとする人、今までの薬物の代用にこれを用いてはならぬ。真に強き人間を産み出すためにだけ用うべきである。
 吾々を強く生かすには、今までの世の中は余りに制度が複雑であり、組織が込み入っていた。べしとべからずは、遠慮なく吾々を縛っていた。
 吾々はこの際、組織や制度の下にうずくまって青白くなってしまった人間を、活き活きと元気に復興させねばならぬ。愉気法はこの目的のために用いらるべき性質の方法である。
 人間が弱かったり、病気になったりすることを、結核菌の所為にしたり、肺炎菌の所為にしたり、何かの所為にしてしまう今までの考え方を改めて、自分が弱いから病気になるのだ、自分がたるんでいたから病菌にそれを教えられたのだと、素直に自分の所為にして、病菌すら指月の指と見て、そこから吾々の生きる道を出発させたいものだ。

「今までの世の中は余りに制度が複雑であり、組織が込み入っていた。べしとべからずは、遠慮なく吾々を縛っていた」と、この時代から言われていたんですね。終戦の年です。
「病菌にそれを教えられた」と。沖節の出どころ。もー、惚れちゃったんだろうね。

<190ページ 愉気法の構造 昭和二十年(全文)>
 婆羅門のプラーナ説も、ガブリオイヰッチのミトゲン線説も一理あろうが、全部を説いたものではない。何らかの感応道交が主体になって、愉気法が行われることは確かだが、今までの学問で決めつけるには、余りにも霊気的なものがある。
 アブラハム脊髄反射説も、愉気法の物理的理解には役立つが、それのみに拠るには無理がある。パーマーの脊椎矯正術の理論にも、スチルの筋骨整正術の理論も、それぞれ面白い。
 しかし、愉気法がもっとも心理的問題を含むことは動かし得ないことだ。人間の感受性を利用して自然治癒能力を促進する方法とでも、今日のところ言うよりほかない。
 そこで、愉気法の実際に於いては、如何に感受性を高度ならしむるか、ということが第一の問題となる。
 次いで、その感受性を如何に望む如く利用するかということである。本能的物理療法と見なされる手を当てる行為も、整体操法として組織するとなると、心理的、生理的な問題の方が重要になる。特に感受性の問題は、心を離れてはいない。

ものすごく勉強していた頃なんだろうなと思う。文章が硬いのは、若さかな。かっこよかったんだろうなぁ。
野口先生の若い頃の顔は、風吹ジュンに似てる。


ここからは、昭和四十五年の講述です。
ちなみに「愉気」のネーミングの由来は以前「整体法の基礎」の感想に書きましたが、「愉快な気を移していこうとすること」です。

<55ページ 生き物の内的条件 より>
 この間、講義記録を見ましたら、「弱い者を庇う必要はない」と私が言ったように記録されていましたが、そんなことを言ったことは一度もありません。私の言うのは、弱い者を庇い過ぎると弱くなるということなのです。庇う人が満足するまでやると、庇い過ぎになると言っているのです。
 老婆親切で、牛の頭を抱えて草を食べさせて親切なつもりでいるような、そういう親切は本当の親切ではなく、庇う人の自己満足なのです。看病人が、死にかけている人に手当を尽すのだといっていろいろなことをして、これだけやったから安心だというが、これは食欲がないという人にビフテキやお汁粉や、お刺身まで一緒に口に入れて、どれかが旨いに相違ないと考えるのと同じなのです。看病人は自分が心配だから、体に適おうと適うまいと、みんな一緒に詰め込んでしまう。そんなことをすれば、助かる者まで死んでしまうかも知れない。そういう親切が余分だというだけで、親切にする必要はないということではないのです。私は生き物を丁寧に観ていますから、そんな断言はできません。

どんな教えも、批難として被害者視点で受け取る人というのがいるのかな。そりゃあ、「やだー。触る気なくなったもん」って気持ちになっちゃうよなぁ。

<8ページ 意思に背いて動いてしまう心 より>
見事に弾ける技術を持っていながら、不安があると弾けなくなるのは何故か。その人の演奏を観ますと、弾いているうちにだんだん顎が出てくるのです。ピアノは前にあるのに、顔は上を向いている。よく女の人達が運転しながら顎を出していますが、人間というのは、不安になって何かしようとすると顎を出してくる。そこで、「顎を出している。それは不安現象だ」という話をしましたら、それ以来、顎を出すまいと努力すればするほど、いよいよ出てしまう。それで演奏会が近づくと、ますます不安になるのだろうと思うのです。だから顎を出すというのも、いろいろ理由があって出すのでなくて、自分の体の中や心の中にある何かが、何かを感じてそうなってしまうのです。

そう。しぐさとして逆の意向と受け取ってしまいがちなのだけど、首の後ろを縮めているんですよね。そこでふんばってる。
はじめてやるアーサナとか苦手なバランスのときに、ここがわかりやすい。気にしないようにヨガしながら、ちょっと気にしてみて(むずかしいか)。

<16ページ 間違った健康観 より>
 同じ動作でも、ゆっくり歩けば何でもない。せかせか歩けば余分に消耗する。ゆっくり動作することを覚えないで、せかせかしながら他人の血を貰うなんてことは可笑しいのです、老人は老人なりに、自分の体に適うように生活することの方がずっと本当なのです。その人はじきに死にましたけれども、私のことを「不親切だ」と言っていました。しかしこの次の世には、きっと自分の体に適うように生活することを覚えてくるだろうと思うのです。何代かかってもいいのです。そういうことをはっきり見極めて、蟻や鼠よりも多少は利口にならなくてはならない。
 しかし誰も無意識には健康を保つ力があることを知っていますので、このように大勢集まって、汚れた空気の中で話を聞いたりしても大丈夫なのです。ところが人間自体にそういう力がないと思って、物だけのつもりでいると、絶えず殺菌消毒しなくてはならない。絶えず逃げ廻っていなくてはならない。絶えず黴菌を殺そうっと思っていなくてはならない、子供と喧嘩しても可笑しいのに、もっと小さい黴菌と喧嘩する。しかし生き物には、そういうものを体内に入れてなお豊富に生きる力を持っているのです。

経験談の部分からです。「人間自体にそういう力がないと思っているから殺菌する」というのは、当たり前なのだけど、いわれないと気づきにくい。「だって怖いじゃない」と思う前に、自分の動物力を認めなきゃ。

<57ページ 生き物の内的条件 より>
 ともかく私は、病気を治療するということを止めて、気が感応することを利用して気を伝えるということを大勢の人に教えるようになりました。
 菊に愉気をして、毎年大きな花を咲かせ、日比谷の展覧会でいつも賞を貰うという人がいました。朝顔でも愉気すると、その花が大きく咲きます。自然に沿うのでしょう。

ルーサー・バーバンクの話みたいだ。

<62ページ 愉気法のあり方 より>
 戦後の約十年間は、プロにばかり教えていたのです。そしてプロは駄目だと、こういう人間をいくら増やしても病気になる人はいよいよ多くなると思いました。病人の減ることを、米櫃のお米が少なくなることのように錯覚している人すらいるのです。それでプロに教えるのは止めました。
 そして、子供を持ったお母さん達に愉気を教えるようになりました。親と子は一番感応し合うのです。"子供よ、弱くなって死んじまえ" なんて思っている親はいない。普段うるさがっていても、何かあった時は一生懸命になる。それで、子供を持ったお母さん達に教え出し、それがこの会となって、もう十何年以上になります。

晩年は、こういう意向で活動されていたそうです。

<88ページ  質問に答える章より>
愉気しながら親切にしてやったなんて思うのは、余分です。
 中には自分が愉気したから相手の人はよくなったのだと、そう思おうとする。恩に着せるのには都合のいい理屈だけれども、死んだ人の傷だったらいくらやっても治らない。相手が生きているから治る。そういうことも考えなくてはならない。だから愉気して治るのはやはり相手自身の力です。愉気するのは自然の情なのです。"私がせっかく親切にしてやったのに" なんて思うのは余分だし、愉気すると自分の力がなくなると思っているのも間違いです。自分の力でやるのではないから却って増えるので、自分は自然の光を通す窓になるだけなのです。だから、足りなくならない。足りなくなると思っている人は、蓄電器や何かのつもりでやっているのです。宇宙に、自然というものに、気を通していないのです。ひどい人は、頭の痛い人を愉気したから自分が頭が痛くなった、お腹の痛い人を愉気したから自分がお腹が痛くなったという人がおります。それはやっぱりやったら減るという考え方です。両手を当てておりますと、そういうことはありません。

受け手側が「していただいた」ではなく「ちょっとやってもらった」というニュアンスを表現することばのバリエーションが少ない。そういう面で、「サンキュー♪」というのはいいノリだよね。

<101ページ 質問に答える章より>
質問:今の時代にこそ愉気法が必要だと言われたことがありましたが、どうしてでしょうか。
答:(前半略)私達の子供の頃は、大人も子供ももっとにこにこしていたと思うのです、友達同士、みんな仲良く遊んだと思うのです。今の子供は、友達が敵であり、「あれが受かれば俺が落ちる」と思う。親もそのつもりになっている。それでは友達を作ったり、仲良くしたりということもできないでしょうね。昔はもっとみんながにこにこしていたような気がします。軍隊があったり何ぞして、厭なことは一杯あったけれども、笑う時にはみな声を出して笑いました。今聞こえるのは「ワッハッハ」と作り笑いをしている声だけで、あれなら玩具が笑っているのと変わらないのです。心からの自然な笑までなくなっている。やはりどこかで自然の気持を取り返さなくてはいけないと思うのです。
 それに大人は子供にまで気取って、本当に腹を立てられないでいます。物判りのいい親父やお袋になろうとばっかり思って、何でも褒めればいいとか、言うことをきけばいいなんて思って、子供に教えるべきことを教えない。それで気持の中では子供と一緒になって笑えない、楽しめない。
 人間がだんだん集団で死ぬ方に向かっているというが、何か生存の欲といったような、それを表現する働きといったようなものが非常に希薄になったと思うのですが、私は、愉気し合うということでそれを取り返し得れば、それは人間全体への愉気ということにもなろうかと思うのです。それは、皆さん一人一人が愉気することでそういうような働きになるのです。

自分の背中には手のひらをあてられないのだから。

<109ページ 質問に答える章より>
質問:愉気をする場合に、相手によって集注できないとか、やりたくないということがありいますが……。
答:(中段抜粋)愉気する人も、気の合わない人とか厭々やるとかいうようなことは全部止めて、そういう人には頭を下げて断ったらいい。


(中略)


みな平等にしなくてはならないという、そんな考えを持たずにやればいいのです。
 私も偏狭なのです。昔は十人来ると七人は断りました。自分でどうしても気が向かないと、「どうしても貴方を愉気する気になれなくて」と言って断るのです。すると向こうはカンカンになって怒る。


(中略)


今でも円満になっておりません。厭なものは厭、いいものはいい。やるなら全力でやります。全力でやれないのならみな厭です。
 ただ、昔よりそういう厭な人が減ってきたのです。ものの見方が変わってきた。特に体癖というものを研究しだすようになり、潜在意識というものを知るようになってからは、その人達がそういう行動をしても無理はない、そういう潜在意識があるなら、そういう行動をしても自然であると感じられるようになってきました。つまり私が円満になったから大勢の人をやれるようになったのではなくて、頭で人間を理解できるようになって、そして相手が大勢になっただけなのです。


(中略)


心も根性も昔のままで、意地の悪いのもみな同じです。ただ人間に対する理解が広がったのでできるようになったというそれだけで、私にもできるのだから、大抵の人は私ほど偏狭でもなく、意地悪でもないでしょうから、きっと愉気はできます。

「全力でやれないのならみな厭です」って、ここさりげなくジゴロ・フレーズですよ。気をつけて女子!

<183ページ 質問に答える章より>
 ごく大雑把に言うと、後頭部は生きている元なのです。後頭部が毀れると死ぬのです。だから後頭部へまず愉気を致します。そこで感じる人は続けていい。そこに愉気している内に自分の手までどのんどん冷たくなってしまって、相手がちっとも感じないというような時は警戒です。その時はやらない方がいい。大きな反動があるか、生きる力が相手になくなっているとかいう時ですから、後頭部を愉気して感じのない人は止める。死なない人があったとしても、手を出さない方が無事です。

野口先生の部位談義では腰椎と頚椎・後頭部がキーになっていることが多い。丹田と神経のヨーガを学びながら野口整体の本を読むと、面白いです。後頭部と神経の関係が特に。動くのも楽しくなるのだけど、アーサナに時間がかかってしょうがない(笑)。


あんまり反芻して書くとまたニヤニヤしながら恋におちるので、とりあえず風吹ジュンの美脚を妄想しながら、中途半端に意識を切り替えて寝ることにします。



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