以前自分なりに2冊の「体癖」を読んだ上で、そのとらえ方の部分について書きました。
端的にはどなたかが書いてくださっているWikipediaによくまとまっているとおりなのだけど、自分の理解を項目で分けるとこんな感じ、というのをまとめました。
12種ある体癖のなかで、いくつかはいまの時代背景もあって、多くの場面で見られるものがあります。この点についてはいつか掘り下げることにして、まずは全体感の理解。
▼ぱつっとした分類
- 12種とされているが、10種類+過敏な11種、遅鈍な12種といえる。(5×2)+2=12という感じ。
- 「種」は絵の具のようなもの。そこで11種と12種は白と黒のような位置づけ。
- 10種までは男女で出かたが違う。よって細分化すると 10×2=20 に分かれる。
- 男女の違いは身体の違いもあるが、「対比による位置づけ」もある(男らしさ、女らしさや「漢」、「女ですもの」というようなもの)
- 10種までは偏りがキーとなる。
- 10種までは腰椎と連動する。
(・_・)ここまでは、わりとデジタルな感じで入ってくるのだけど、11種と12種のカードは特殊。
ここは型に混ぜずに別の扱いにするか、野口先生も迷ったところであろうと思う。
11種は6種的な要素と重なるところが多い。12種は体量配分計がないと自分にはわからないと思う。
▼スピードや重さの要素が入ること
- 奇数、偶数は陰陽のようなもの。
- 奇数は噴出速度が速い。
- 偶数は噴出速度が緩い。
- 「凝固速度」というものがあり、9、6、7種は早い。
(・_・)ここで6種だけ偶数であることは見逃せない、重要なところだと思っている。
野口先生のすごいところは、「内環境状態」という観点をもっているところ。噴出速度と凝固速度のこと。
体量配分の分析を超えたものが、ここにある。
▼感覚的・自然的なところ
- 「型」は、宗教の宗派や絵画の技法のよう。行動の発生動機として、なにをフックに納得したら信じるか。それが表に出るとき、表現技法としてどうするか。
- 各種の出かたに高潮期、低潮期という波がある。これは絵の具にたとえると水分の混じり具合のようなもので、濃いとき、薄いとき。
(・_・)ここは個人的な理解感覚のたとえ。
というのが、野口先生の身体哲学なのだけど、アナログな感じで書かれている内容を読むなかで、以下のことを連想した。
- 日本人は国民性のような要素として、ほかの国の人と比較すると1種と6種の要素を持ち合わせやすい社会で暮らしている。
- どんな人間も幼児の時期には6種の要素を持つであろう。大人になってからは、「幼児性」とよく言われるものと感じる。
- 国民性の要素でいうと、アメリカには5種や7種の要素が色濃く出ているように思う。フランス人は3種となにかを掛け合わせたブレンドが多そうだ。
インドの場合は基本的に他国に抜きん出た輪廻思想の定着があるので、この哲学では当てはめにくい要素を多分に持ちつつも、カーストを背景とした「権威好き」という側面も持っている。この国には、やはり3つのグナやトリドーシャの理論や哲学がしっくりいく。
今日の内容はさっぱりわかりにくいと思うのだけど、上記は今後自分なりの理解をまとめていく上でのベースとなる記述と思ってください。
「体癖」については、自分の場合は過去の運動経験や身体の使い方とここ数年のヨーガだったけれど、なにかしらの身体論を理解するための言語のようなものがないと、一般的には感覚的に解釈していくのはむずかしいかもしれない。
このサンプルはひとり(自身で感じる自身の体)でじゅうぶん、ある程度は理解できるものと感じられるようになったけど、ゆるゆると年月を使ったと思う。占いのように読んで混乱して、以上。となる人が多いのではないかな。
身体のほうは、いくつか確認のしかたとして見つけたヒントがあるので、後日書こうと思っています。(これは先日の生ブログで休憩時間にお話したらなかなか好評だったので、お楽しみに)
自己観察のプロセスでむずかしいのは、
自身に対してどれだけ客観的に認めたくない部分を受け容れることができるか。
これに尽きる。
この学びの間に気づいたことで、メモ帳がいっぱいになりました。
野口先生の残した教えは、自身とそれを取りまく状況の「いま」の見つめかた。
この身体哲学展開の波は、関東大震災の直後からはじまっている。
いまこの時にいろいろ感じていることが、いまを生きている、そんな実感につながっています。
世の中は混沌としてややこしいけれど、人間らしくて、面白い。
そんなことを感じています。