うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

西遊記 呉承恩(著)/ 松枝茂夫(翻訳)

ヨガ友ユッキーの家の本棚から借りてきました。青い鳥文庫という子供向けのシリーズで、「小学中級から」と裏表紙にありました。なので、ひらがな記述が多いです。先月発熱で寝込んでいたときに読んだのですが、身体がしんどいとき用にこういう本を用意しておくのはいいなと思いました。
ブログを始める前から西遊記に関する本は何冊か読んでいて、ほぼ日刊イトイ新聞でオンライン提供されている邱永漢氏のものも相当面白い(「お師匠さまのような仏教キチガイと一緒でなければ〜」などの描写が笑える)。
うちこは過去に平岩弓枝さんのバージョン(「上巻」「下巻」)を絶賛していますが、これは「三蔵目線でのこころの成長記録」としての描かれ方が面白いため。大人になってからこんなに心に沁みる西遊記はなかなかない。これについては、本の感想とは別に「肉体という制限」というトピックにして書きました。
基本的に多くの西遊記は悟空目線で語られることが多く、子供向けであればなおさらで、妖怪退治の武勇伝の色合いが濃くなります。西遊記の核にはもうひとつ「師匠と弟子の関係で描写される葛藤と学び」という大きな題材があるのですが、この部分は今あえて孫悟空目線の子供向けバージョンを読んでみたら、また別の味わいがありました。


西遊記は、この本のあとがきに

<331ページ 解説「西遊記」とは (松枝茂夫)より>
西遊記」は長い年月の間に、無数の名もなき人々の口から口に語りつぎいいつがれ、無数の人々の手で書きとめられ、書き改められ、書き加えられて、ついに今日見るような形にまとめられたものなのです。ですからこれはある特定の個人の著作とするよりも、無数の名もなき中国民衆こそ真の著作権者だと見たほうが、はるかに妥当ではないかと私は考えます。

と書かれているとおりで、どこに視点の支点を置くかで描き方が玉虫色に変化するのが面白いところ。オトコ三蔵法師のガチな旅行記大唐西域記」ベースの「玄奘三蔵―西域・インド紀行」も過去に紹介していますが、西遊記はもともと「男・玄奘」のたくましい旅行記なんですね。
それが、意識が朦朧とするなか歩く砂漠で陽炎が妖怪にみえちゃったことに始まるルーツや、そこにハヌマーンなどのインド神がからんで弟子化されちゃうところとか、「どういうわけか、こういう話が生まれた」ってところが面白いんです。


この西遊記にはこんな印象を持ちました。

 ・ずっと孫悟空目線。悟空ヒーローベース(ドラゴンボール的ってこと)。
 ・孫悟空牛魔王の関係がしっかり描かれているところもドラゴンボール的。
 ・観音様が活躍しすぎなんだけど、平岩バージョンほどには出てこない。前半で登場終了。
 ・三蔵はかなりワガママなキャラで描かれています(悟空目線なので)。
 ・猪八戒風評被害を生み出す性格であることが強調されている。
 ・沙悟浄の存在感が薄い。


ほかの西遊記でもそうですが、最後に接引仏祖登場の場面で「三蔵が俗世の肉体を捨てる」描写を子供向けに書くのは、ほんと難しいなと思う。その部分も最後に紹介します。

<31ページ 閻魔庁へあばれこむ より>
 閻魔王はおろおろしながら、さっそく部下に命じて、閻魔庁の帳面をのこらずはこんでこさせた。それは人間はもとより、鳥やけだものの名まえと寿命がいちいち書きこんである。悟空がサルの部の帳面をしらべると、その中に千三百五十号として「孫悟空」の名があり、
「寿命三百四十三さい、期限ぎれ。」
とあった。悟空は、役人の手から筆をひったくると、すみをたっぷりつけて、じぶんの名まえをまっ黒にぬりつぶし、ついでにけらいのサルたちの名まえもぜんぶけしてしまった。

元祖デスノートだよぉ。

<79ページ 三蔵法師 より>
 やがて吉日をえらんで、いよいよ出発という日には、玄奘は宮中に召されて、太宗から、いろいろの品物のほかに、白馬一ぴきと従者ふたりをあたえられ、また「三蔵
」という僧侶の最高の称号さえたまわった。かくて、太宗みずから臣下とともに玄奘を城外にまで見送られ、わかれのさかずきをかわして、玄奘は万里の異境へと出発したのである。
 ときに貞観十三年(西暦六三九年)九月十二日のことであった。

Wikiの記述(629年)と10年差がある。

<183ページ 悟空を破門する より>
「だが、まてよ。もしやつを打てば、また師匠が、なんだかんだといって、例の緊箍呪をとなえるだろう。……しかし、うちころさぬことには、師匠の身があぶない。やっぱり打ったほうがいい。そのときはそのときだ。なんとかうまいことをいって、師匠をまるめこめば、すむわけだ。」
 悟空はついに決心して、妖怪のすきをうかがい、一棒のものとに、みごと妖怪をうちたおした。
 三蔵はがたがたふるえて、口もきけないでいる。すると八戒がまたわらいながらいった。
「悟空さん、気でもちがったのかい。半日のうちに三人も人ごろしをしよったぜ。」
 三蔵が緊箍呪をとなえようとするのを、悟空はあわててとめて、
「お師匠さま、よしてください。それより、ちょっとこれを見てごらんなさい。」
 みると、そこには白骨がよこたわっているではないか。三蔵はおどろいて、
「どうして、いま死んだばかりなのに白骨になったんだろう。」
「これは死骸に霊がはいって妖怪となったもので、わたくしにうちころされて、本性をあらわしたんです。ほれ、ごらんなさい。背骨のところに『白骨夫人』と書いてあるでしょう。」
 三蔵はなるほどと信用した。ところが八戒がまたくちばしをいれた。
「お師匠さま。兄きはたしかに人をころしたんだ。お師匠さまに、また例のやつをむにゃむにゃとなえられるのがこわいばかりに、こんな形にかえて、お師匠さまの目をくらまそうとしてるんだ。」

うちこは西遊記で「破門」ということばを学んだのだけど、すごく印象的だったのは、この八戒の「いやなはたらき」があったから。とくにこの本は子供向けだから、そこが強めに描かれている。ドラマの西田敏行もそうだったしね。
八戒が如意棒を「喪式棒(そうしきぼう)」と言う悪口の名称で呼んでいたことなんかも書かれていて、八戒の描かれ方を見るのも楽しみどころ、読み比べどころのひとつ。

<216ページ 悟空ふたたび師匠のもとへ より>
「兄き、ゆるしてくれ。お師匠さまの顔にめんじてゆるしてくれ」
「ふん、お師匠さまは義理知らずだ。」
「そんなら、南海の観音菩薩さまにめんじてゆるしてくれ。」
 そういわれて、悟空はすこし心を動かし、
「おい、ほんとうのことをいえよ。お師匠さまがなにか災難にあっていなさるんじゃないのか。」
 そこで八戒はとうとう黄袍郎の一件をくわしく話して、
「兄きは義理がたい男だ。ことわざにも『君子は旧悪をおもわず。』という。また、『一日師とあおげば一生恩をわすれず。』ともいう。兄きならきっとお師匠さまをたすけにとんできてくれると信じていたんだ。」
「ばかやろう。だからわかれるとき、くれぐれもいっておいたろう。妖魔につかまったら、おれの名をいえと。どうしていわなかったんだ。」
 八戒は考えた。「そうだ、このサルをひっぱりだすには、おだてるよりも、おこらすのがいちばんだ。」そこで八戒はいった。
「むろん兄きの名まえをいったさ。ところが、いわなきゃまだよかった。いったばかりに、そいつ、いよいよひどいことをぬかすんだ。」
「なんといったんだ。」
「おれがな、『やい妖魔、おれの兄きは、かの有名な孫行者だぞ。その兄きがやってきたら、きさまなんか、いっぺんにたたきころされるぞ。』と、そういったんだ。すると、その妖魔がなんといったと思う。こうぬかしやがるんだ。『なに、孫行者だと。それがどうした。そいつがやってきたら、皮をひっぺがし、すじをひっこぬき、ほねごと、心臓まで食ってやらあ。そのサルがやせていたら、たたきにして、油であげてやるわい』と、こうだ。」
 これをきいて悟空、じだんだふみ、カリカリと歯がみをしておこった。
「うぬ、ちくしょう。いますぐいって、そいつをひっとらえ、きりこまざいてやらずにおくものか。」
 悟空は、いままで着ていた服をぬぎすてて、僧衣をまとい、トラの皮のはかまをはき、鉄棒を手にとると、小ザルどもにわかれをつげて、八戒とともに雲に飛びのり、花果山を出発した。

『君子は旧悪をおもわず。』と『一日師とあおげば一生恩をわすれず。』をセットで持ち出すところが、八戒のずるがしこさの描写として秀逸。

<320ページ ついにお経をもらう より>
「だめだ。ここをどこだと思ってる。雲にのってなぞと、とんでもない。この橋をわたっていかぬことには、成仏はできないんだぞ。」
といって、悟空は八戒をおさえつけたが、八戒は地べたにへばりついて動かない。そのとき、とつぜん、下流のほうから、ひとりの男が一そうの船をあやつって近づいてきて、
「さあ、おのりなさい、おわたししましょう。」
とよんだ。三蔵はたいそうよろこんだが、その船のそばによってみて、あっとおどろいた。
「なんだ、こんな底のないぼろ船。どうして人をわたせよう。」
 しかし悟空は、その船頭が接引仏祖、すなわち、みちびきの仏のひとりであることを、早くもその赤目で見てとったので、
「お師匠さま、おのりなさい。この船は底はなくてもだいじょうぶです。けっして転覆するようなことはありませんから。」
といって、なおもためらっている三蔵の両うでをつかんで、ぐいとおした。三蔵はよろよろとよろけて、ドブンと水の中におちた。とたんに、船頭はさっと三蔵をひっぱりあげて、船の中に立たせた。
 悟空はさらに八戒と悟浄をせきたてて、ウマもいっしょに船にのりこませた。
 船頭がさおをとって船を川の中にこぎだしたとき、上流から一つの死骸が船のそばにながれよってきた。三蔵がこれを見て、ぎょっとしていると、悟空がわらっていった。
「お師匠さま、こわいことはありません。あれはあなたですよ。」
「ほんとに、お師匠さまだ、お師匠さまだ。」
と、八戒も悟浄もいった。
 船頭も、歌でもうたうようにいった。
「あれはあなただ。めでたや、めでたや。」
 まことにそれは三蔵のぬぎすてた俗世の肉のからであった。
 またたくまに、するすると凌雲渡をわたってしまい、三蔵らはひらりと岸にとびあがった。そして、ふとうしろをふりかえってみると、船頭のすがたはもとより、底なし船さえ、どこへきえたのかわからなかった。悟空から、その船頭が接引仏祖であったことを教えられて、三蔵ははっとさとるところがあった。

「おかあさん、三蔵法師は死んだの?」「そうじゃないのよ、ぼうや」っていう面倒なことになるので、幼児用ではカットしちゃいたいところ。小学生でもきびしいぞここは。
あとここは、悟空のほうが先にわかっちゃっているところが面白いんだよなぁ。


師匠と弟子の関係って、おもしろいよねぇほんと。
たまにインド人の師匠が「うちこちゃん怒っちゃったかな。ヨガやめちゃったらどうしよう」とあわてているらしいことをヨガ友から知らされたりすることがあるのですが、「師匠も人間」ということをこういう本で学んでおくといい。
人があわてたり怒ったり、判断に迷っているときに見える「かわいらしさ」を読み取れるようになっておくこと。これはすごく大事なことだよね。

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