うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

生命平和憲法 正木高志 著

先日ヨガ仲間からいただいた冊子を読んで、考えたことがありました。
日本の社会問題のなかでもとくに8050問題のような、現在50歳前後の就職氷河期世代を扱う論調にわたしは少しだけ敏感です。世代的に当事者だからこそ、つい目を逸らしたくなる。わたしはたまたま、なんとか自活できているだけなのだけどな…とずっと思い続けていたことに気がつきました。
そのモヤモヤの根源を気にかける機会が増えていた矢先にいただいたこの本に、その苦しい気持ちの源泉へ近づくヒントが書かれていました。

 

 

 わたしは就職がゴールとして大きく設定されすぎている人生を生きてきた

 

 

就職活動以前から、そのための進学、そのための内申書、そのためのテスト勉強、そのための出席率、そのための部活参加、そのための笑顔・あいさつ・声出し…
漠然とその有効さを肌で感じて、そのシステムの好む快活さを自分で演じながら、早足で歩き続けてきた。リセットしようとしてもしても、休めない。

 

 

 まるで就職が解脱に設定されているようなものだったな

 

 

わたしはこのことを、考えないようにしてきたのかな。
30代の終わり頃までわたしの社会参加のモチベーションになっていたもののひとつに、奨学金の返済義務がありました。それが終わってからやっと、自分でメニューを考えたヨガクラスをやりに外へ出ていくことをやってみようかな…という気になってきた。いまもこの冒険気分は続いています。

 


わたしは小学生の頃から妙に学校への出席率にこだわっていました。漠然と成績のスコアよりもそれがいちばん重要なのではないかと推測していました。なので家族旅行へ行くために平日に休みをとるのはどうかという話が出ると、とても苦しい気持ちになりました。
就職を信仰するヨーガの道を歩み始めたヨーギーが、いきなり横から牛肉を食べないかと提案されるかのような戸惑い。宿と食事を与えてくれる提案者に逆らって大丈夫なのだろうかと思いつつ、すでにしっかり芽を出しているこの信念をいま崩してしまったら、大切な火が消えそう。

子どもの頃はただ漠然とふて腐れることしかできなかったけど、10代の前半から「就職」を信仰し始めていたことに今さらながら気づきました。このジレンマを言語化するのに30年以上もかかるなんて。でも言語化しなければそのままだった。

 

 

── で。
就職できたから解脱かと思ったら、ぜんぜんそんなことはなかった。就職してからのほうが人生はうんと長い。それにしても長すぎる。
就職できた先の世界はもちろん天上界とはほど遠く、でもそこで失敗すれば畜生界へ落とされて、またがんばって人間界。そこで再び天上界を目指したいかと問われたら、もうすでに一度ちらっと見ているし…なんて具合で最初の熱量はない。その繰り返しのさまはまるで「ひとり西遊記」。これでもまだ旅の半分だというのだから、天竺は遠い遠い。ニンニキニキニキと歌っていても、ぜんぜん着かない。

 

そんなわたしが中年になってしみじみ思うのは、それぞれ違う肉体を持ちつつ同じ時代に人生の旅を味わう仲間の存在と、それを行為や言葉で共有できる機会のありがたさです。ひとりでいても、その存在を思うだけで漠然とがんばろうと思える。
きっとあっちの山・谷・沼で、悟空が・八戒が・悟浄が戦っている。そんなふうに、離れていても妖怪仲間の存在を感じられる瞬間に勇気がわいてくる。
そう思うと就職というのは一度妖怪になるためのプロセスだったのかもしれない。んー。なんか結論がおかしいけど、就職というのは実際のところわたしにとって、そういうものだった。

 


結論が全然違う感じになりましたが、読んだ冊子はこちらです。

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