昨日は仕事を早めに切り上げて、文京区小石川にある真珠院で行なわれたパトゥル・リンポチェによる一般講演「震災の不幸の中で、どのように仏教を役立てるか」を聞いてきました。
震災に限らず、生活の中で「どのように仏教を役立てるか」というお話でもあったと思います。
講演は2時間。自由布施で行なわれました。今日はパトゥル・リンポチェも護国寺で行なわれたダライ・ラマによる東日本大震災犠牲者四十九日法要へ行かれていたようです。
この2時間のお話は10分の休憩を挟みながら、英語で、ときに笑いを交えながらの内容。
私たちがどのような生き物か、人間の身体のすばらしさと、それを忘れてしまっている愚かさにはじまり、「死ぬ前に、ツールとして何が必要か」「あなたの守り手はあなた自身」「自分の心に自分で教育を与えるのです」というメッセージに始まり、日々を乗り越えていくなかで忘れがちなことを思い出させてくれるお話ばかりでした。
なかでも
Self Revolution
という言葉がよかった。渡辺美里の100倍よい。
そうなんだよね。My じゃなくて、Self。
誰かに与えられるものでも、ひとり占めするものでもない。
自分の苦しみからの解放が、Self Revolutionなんだ。って。
リンポチェはヨギのように、車の運転に喩えていました。
「Self Drivingだよ。Self drive is perfect.」と。
阿弥陀仏だってこんなにみんなに「助けて助けて」言われて、忙しいときもあるんだよ。
「俺が忙しいとき、おめー、どーすんだ?」ってことなわけ。とおっしゃっていた。
本当にこんな感じで、大笑いしながら話す。
そして、ミラレパたんの映画でみたような話もあった。
バルド。生と死の間。
そこでは、どの道を行くか、たったひとりで決める。
そこへ阿弥陀仏が来てくれたとしても、認識することができないんだって。
そこで役に立ってくれるのが「正法(ダルマ)」なんだって。
ミラレパはマルパの死の儀式でずっと「師が正しい道を選択できるように」と祈ってた。
うちこは人の死を思うとき、「次の世界でよい選択ができる元気がありますように」と祈る。
これは、ミラレパたんのあのとき気持ちと一緒だ。
誰の死であれ、死は死なのだけど、情報として入ってくるのは知人の死だ。
だからそのときは、「その人の選択の元気」を祈っていたのだけど、「正法(ダルマ)」をそれまでに本人がどれほど心得ていたかは、はかり知れない。
自分が死を迎えるときは、「だいじょうぶだよ。うちこはこれまで自分なりに修行をしてきたんだ。がんばるから、心配しないで。でも応援はうれしい。ありがと」と言わなくても伝わるような生き方をするんだ。と思った。自分に置き換えてみるきっかけになった。
智慧にマッサージをするんだよ
という教えも心に響いた。
智慧にマッサージをして、強く、鋭く、磨きなさい、と。
誰かが苦しんでいるときは、あらゆる工夫でその人を助けなければいけなくなるのだけど、「智慧のまなこ」がなければ、本人はお茶が欲しいのにコーヒーを出すような選択をしてしまうって。
まず彼らに何が必要なのかを理解する
そのために、智慧を強く、鋭く、磨くんだって。
これは、すごく難しい。毎日のことだ。
ぜんぜん、できてない。
最後の質疑応答のときに、「リンポチェは今のチベットの状況についてどのように思っていますか?」という質問が投げかけられた。
このときの返答で、「そんなときにもユーモアを忘れないチベット人」を生で見た。
チョギャム・トゥルンパ著「タントラへの道」の紹介で引用した
ユーモアのセンスは、あらゆるものに充満する悦びから生まれるように思われる。その悦びは<これ>と<あれ>との間の戦いに巻きこまれていない。
ということそのまんまの答えが返ってきた。
リンポチェは、こういって笑った。
同じ質問を西洋人からも受けたことがあるのだけど、チベットそのものだって、輪廻なんだよね。善を行なったチベット人はもうどこかへ行ってしまっていて、今いる人は悪人の生まれ変わりばかりかも知れないよ。ほとんどが西洋人だったりしてね。がはは。ジョークだけどね。
まえに石原慎太郎氏が「under control」をうまくいえなかった件について書いたことがあるのだけど、リンポチェのトークは、がっちり板についたジョークになっていた。
マギー司郎の「縦縞のハンカチが横縞になったのネ」くらいの安定感。
悲しいも苦しいも、セルフ・ドライブ。
すばらしい身体をいただいたわれわれは、その顔を笑いで飾ったほうがいいんじゃないかな。
そんなことを全身で伝えていたリンポチェ。
ありがたい教えでした。
★おまけ★
ちなみに真珠院は、こんなお寺です。
地図を見ていたらこのお寺の近くに「弘法院」という名前があったので行ってみたのだけど