スリランカで学んだことを書きます。善意あるところにビジネスあり、のお話です。
キャンディに到着した日、仏歯寺を散策した後に母と二人で湖畔のベンチで休憩をしていたら、ひとりのスリランカ青年が日本語混じりで話しかけてきました。彼は心理学を学んでいる学生で、日本が大好きで日本人から日本語を教えてもらって、カタコトの日本語を少し知っているのだそう。とても気のいい青年です。
そのときの時刻、5時45分。この日は日曜日。
「この近くにヒンドゥー教と仏教を一緒にまつってある寺院があって、6時に閉まってしまいます。ラッキー・フォーチュンを祈ってくれるお寺なのですが、明日からまた平日でそのお寺は開かないので、今から行きませんか? まだ間に合います」と。
それは興味深い、ってんで、行きます。即決です。
道すがら「あなたのそのオレンジのマフラーを見て、ブッディストの日本人だと思いましたよ」と。そうですか。
寺院の入り口で、ものすごく犬が吠えました。これは警告をしてくれていたのかもしれなかったと今では思いますが、そのときはもちろんそんなことはわかりません。
寺院にはいると、いきなり「ブッダに化身する前ですよ、というシヴァ神像」。ヒンドゥー寺院としてのスタートです。小さな寺院ですが、それぞれのお部屋にまつってある神様について、青年が丁寧に説明をしてくれます。でも写真はNGだって。残念。
ドネーション・ボックス(賽銭箱)があったので、母がお金を入れようとしました。そのとき「NO NO ドネーションは、名前を書いて入れるものです。そこにお金をいれるのは違います」と青年が制止しました。日本式でやったっていいじゃん、と思いつつもそこはスルーしたのですが、これはその後に起こることの「伏線」でした。
本堂のようなところへ入ると、ラッキー・フォーチュンの儀式なのか、ひとりの僧侶(僧侶B)がお祈りをしにきた人の毛糸を手首に巻いてマントラを唱えながら、うちわで頭をポン、ポン、と叩く一連の流れを行っていました。
「なんかやっとるわ」と思いながら見ていたら、もう一段階偉そうな僧侶(僧侶A)が自然な流れで説明に入ってきました。
「日本人ですか、そうですかそうですか」といいながら。とても自然な流れです。ダライ・ラマに接見した際の写真のある部屋(寺務所)で、「ダライ・ラマ、ご存じですか?」と。ブッディストじゃなくても、日本人でなくても知らない人の方が少ない有名人です。
「まあ、おかけください」と言われたので座ると、頼んでもいないのにさっきの儀式がすこし大げさな仕立てで始まりました。手相まで見てくれちゃいます。僧侶Bが英訳をしてくれます。
「あなたは小さい頃に、病気をしましたね」
まではよかった。
そのあと
「お母様を亡くしましたね」
隣におるよ……。これ、かーちゃんだよ。
このへんから、ちょっと面白くなってきます。
そして、「母じゃなければ誰なんだ?」という、もうそのときにはどこのオバちゃんかわからない前提になってしまった母には
「あなたのその痛んでいる背中には、青い石がよいです。その石が太陽のエネルギーを集めて、その痛みを癒してくれるでしょう」
「へー」(ハモった)
そのあと
「街で買う宝石は無駄に高いです。明日またここへ来れば……」と始まります。
「明日またここへ来ますか?」
「いいえ」(親子合唱団アゲイン)
宝石を買いに来る客がいるなら、明日も営業する寺院でした。
そして、最後は高額のドネーションを迫られました。
多くの外国人がサインをして、2000、3000、多い人では5000ルピーの寄付をしている記録のノートです。「ひとり2000ルピー、みなさん払ってくれました」と。
「どーする?」と、隣の母と意思確認をしつつも、この旅のオーナーはうちこです。
「いまそんなにビック・ビル持ってないんすよ。ふたりで2000で」といって、払いすぎですがふたりで2000ルピー(1560円)をお支払いしてきました。
感覚的に、日本で写経をする金額より高いのは自分的にいやだったのと、別に「ふざけんな」といって帰ってくることもできたのですが、なんとなくその印象の思い出にするのもいやかな、と思ったんですね。授業料としての着地金額として、ひとり1000ルピーにしました。
その間、青年はじっと横に座っていました。
このとき、なんとなく母も同じことを考えていたようです。というか、母のほうがひとあし先にさっきの賽銭箱で注意されていたこととの関連性に気づいていました。年の功だよと。
うちこはそんな母に、素直にすくすくと育ててもらいました。
お寺を出ると、さっそくその青年に聞いてみます。
うちこ:ねえねえ、で、あなたはあの僧侶からいくらもらうの?
青年:なにを言い出すんだ?
うちこ:わたしいま、あなたを信用してないよ。あなたが仲良くなったという日本人の友達、ユカさんに、コーイチ君だっけ? その人たちもそう思ってるんじゃないかな。そう考える日本人は多いと思うよ。
青年はブチ切れました。
ゴールドカードを見せてきたりして、僕はお金をもらうために案内したのではないと言って、うちこに2000ルピー払うと言います。ずっとその手元を見ていたのだけど、お財布の中に2000ルピーは確認できない。
「この寺院に来る前に、彼は2度も『お金はいらないよ』と言っていたよね。それがそもそも今思うと変だった。彼は心理学を学んでいるそうだしね」というのは、母の談。
うちこ:ラッキー・フォーチュンを祈ってくれる話はきいていたよ。でもそのあとあんなに高いお金が必要だって、なんで教えてくれなかったの?
青年:あれは僧侶が君に請求したんだ。
だから、スリランカのこういうビジネスのキックはなん%か、教えてくれたっていいじゃない。相場が知りたいのよ。と続いたのですが、結局は母がわれわれの仲裁に入り、終了。
そしてこの後も、別の土地でも寺院に案内される展開で同じようなルートをたどったことがあったのですが、ここで学習した経験でやりすごしました。
ゲストハウスの仲介は10%くらいが相場らしいのですが、こういうのはなん%なのか、いまだにわかりません。この青年の場合、コミッションはなかったのかもしれません。ちなみに寄付ノートの金額は信用しない方がいいです。うちこが金額を囲うとしたら、「あ、お名前まででいいですよ」といって取り上げられたので。あれは僧侶が書いてます。ぜんぶ同じ字であることにもノートを閉じる直前に気づきました。
観光が大きな収益となっている国ならではのエピソードです。過去に同じような目にほかの国(フランス、インド)でも逢ってきましたが、ここまで要求額のレートの高い国は初めてです。あと、「コミッション」の定着度も過去に行った国の中ではなかった浸透度。
そしてうちこはその翌日にタンブッラでヒンドゥー僧侶に同じ儀式に誘われました。脊髄反射で「No」と言ったら、「お金は要らないから、ほら、手を出して」といって、その人はいきなり同じような儀式をやってくれたのでした。これには少々混乱、というか完全にググッとヒンドゥー教に引き寄せられました。「スリランカの仏教、なんかうさんくせー」となってしまっていたので(無知なだけでしたが)。
心残りなのは「母を亡くしましたね」と言われた後、「隣にいるこの人を誰だと思っているのか」を確認しなかったことです。母はうれしかったかもしれませんが、うちこにとっては気になる謎として心残りになってしまいました。
たしかにあまり見た目は似ていないんですよね。声とかしゃべり方とか考え方はよく似ていると言われるのですが。シンハラ語で「この人は私の母です」って覚えていたけど、とっさに出てこなかった。語学は実践、実践ですね。
逆の立場でも考えてみました。たとえば日本の居酒屋の「つきだし代」とか「チャージ」って、よくわからないですよね。仏教の場面でいうと、高野山の宿坊へ行くと、僧侶のかたにそっと「来年このお寺の瓦を修復するにあたり、寄進をつのっております……」と無表情で言われたり、「先祖供養のお護摩はどううされますか?」という展開になります。あの無表情さは、外国の人にとってはものすごい圧かもしれません。訪れる全部のお寺で先祖供養をしていたら、けっこうな額になります。
まあそれにしても、今回のような胡散臭いことが日常かというと、そうではないですね。
母娘の珍道中は、この先まだまだ続きます。
★最後に警告としてこのお寺の場所だけご案内しておきます。キャンディ湖畔の赤い線のエリアにありました。(もちろん、ほかの寺院でも同様の手口は多くあります)