うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「平和のための祈り」アッシジのフランチェスコとカルマ・ヨガ

先日「ジャイナ教のマントラ」について書きましたが、只見滞在中に沖道ヨガ教本にあったマントラ「平和のための祈りアッシジ・聖フランチェスコ)」を教えていただいて、唱えました。


以来、仕事をしながらよくこの教えを思い出すんです。不思議。
仕事を「祈るような気持ち」ですすめることがある。そんなとき、このマントラが思い浮かぶ。今日もそうでしたが、期限どおりに提案を仕上げる調整会議の中で、「いま目に見えている範囲から、できるだけ広い領域で幸福が円滑に循環する提案が生まれますように」という気持ちでいて、そしてそこにいたのは愛すべき仕事仲間たちだったのですが、どうしても狭い領域の懸念にひっぱられる⇒あいまいなことを明言化して引き戻す⇒そしてまた仲間が「過去の指摘のカルマ」に引っ張られる⇒あいまいな「印象」から、何度も引き戻す。ときには、強い言葉で。
そんなシークエンス。
……しまいには、祈ってる。


「平和のための祈り」は、教本よりもWikipediaの記述のほうが読みやすかったので、今日はWikipediaの文章から引用します。

■平和のための祈り


主よ、わたしを平和の道具とさせてください。
わたしに もたらさせてください……
憎しみのあるところに愛を、
罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、わたしに求めさせてください……
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです。


『フランシスコの祈り』(女子パウロ会)より

「わたしを平和の道具とさせてください」「人は自分を捨ててこそ、それを受け」「誤りのあるところに真理を」「わたしに求めさせてください」。
うちこは日本人なので、こんなことを会議中にもうひとつの頭で唱えながらも、気がつくと手を合わせていたりする。

カルマ・ヨーガの教えに、宗派の壁はない。