うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

依存症と家族 斎藤学 著

依存症と家族
覚醒剤取締役法違反の法廷で見る家族、シングルマザーで子育てをする友人に向けられる親からの圧、仕事で見るさまざまなクレーム、わたし自身の家で起きていること、スリランカでたくましく生きている人々……。ここ数ヶ月でいろいろ感じることが多い中、この本を借りました。なんの気なしにタイトルで選んだ本だったのですが、出会いですね。ものすごい感度で読んだのだと思います。
この本を読んで行動を起こした今日、わたしの生活に、ひとつ進歩がありました。
母も読んでいる日記なので、ここにそのことを書くとつらい思いをさせてしまうかな、と思ってこれまで稀にしか書いてこなかったことなのですが、自分的にはこれでもすごく進歩でうれしいことだったので、書きます。


今日、アルコール依存症の父が「病院へ行く」と言ってくれました。アルコール依存症の問題というのは、それを解決するためのソーシャル・グループに入るために「本人が自身の問題を認識して治療をしていること」というハードルがあります。
このハードルが、実際ものすごく高い。アルコール依存症の人というのは、3年前から同居している父親の場合だと「俺を異常者扱いするのか」「好きな酒を飲んで何が悪い」という理屈で話にならなかった。
それが今日、ひとつの話し合いをきっかけに一歩前進したんです。そのことは、本の紹介の後に書きます。


この3年間、自分なりにこういうアプローチをするとこうなる、というのを、一度で自分がめげてしまったり、何度も繰り返すパターン、警察のお世話になること、いろいろ経験してきました。
ひとつありがたいのは、いまの家に父と住み始めるときにうちこが近所に挨拶へ行った際、上に住んでいる人が「うちの子が暴れたり椅子をひきずったりしてうるさいと思うのだけど、迷惑をかけたらごめんなさいね」と言ってくれたこと。「うちも、大きな音を出すことがあるかもしれないので」と、そこで安心できた。アルコール依存症の人と暮らす上でのベーシックな不安は、「火事を出さないか」「苦情で引っ越さなければいけないことにならないか」というのがある。


今日の本の感想は、わたし自身の実生活の状況をあわせて書くことになります。問題に直面しているから読んでいる。逃げようとするとよけいしんどいので向き合っている。もしかしたら、アルコールに限らずなんらかの偏った依存をきっかけに、みなさんも直面する問題かもしれません。

<25ページ 物質依存症1 アルコール依存 より>
 まずアルコール依存ですが、これは酒を飲む癖(飲酒習慣)を意味する医学用語です。飲酒習慣は、必ずしも病気とは認定されませんので、病的な飲酒習慣は、アルコール依存症と「症」の字をつけて、アルコール依存から区別します。
 いわゆる「アルコール中毒」は、飲酒の結果として生じるさまざまな好ましからざる影響のことをいい、そこには元来「習慣」という意味は含まれていません。アルコールの急性中毒とは、「酔い」にほかなりませんし、これをくり返していれば肝障害、脳萎縮などの慢性中毒を生じることになるでしょう。アルコール依存が進むにつれ、慢性中毒もひどくなることが多いことは確かですが、この二つは、元来、別物であることを頭に入れておいて下さい。

わたしの父は、いまはまだ「アルコール依存」で、「症」がついてない。「病院へ行く」という意思は芽生えたものの、まだ病院へ行っていないので、ただの「アルコール依存」。いままで広義で「アル中」という言葉を使っていたけれど、父の健康診断の結果はわたしよりも健康で、ぜんぜん「アル中」じゃない(笑)。アルコールよりも怒りのほうが肝臓に悪いみたいです。

<27ページ 物質依存症2 楽物等への依存症 より>
そんな日本も戦前の陸軍の一部が暴走して満州帝国を擁立すると、行政の維持と戦費調達を阿片やモルヒネに頼りました。犠牲になったのは中国のオピウム依存症たちです。
 戦後の日本に蔓延したのはオピウムのような中枢神経抑制薬とは逆に脳神経を刺激して覚醒効果と一時的な能力増進の錯覚を起こすアンフェタミン覚醒剤)です。軍はこれを茶に混ぜた突撃錠と称する緑色の丸薬を作り、特攻隊志願の航空兵や、徴用された工場労働者に飲ませて夜間労働に従事させました。
 戦後に生じたヒロポン(商品名)依存のパンデミック(爆発的発症増加)な広がりにはこうした下地があったとされています。しかし覚醒剤取締法の施行によって、この大流行はたちまち終息しましたので日本人の順法精神は大したものだと思います。

先日傍聴してきた法廷の覚醒剤案件の3件目で、「徹夜仕事があって、眠気ざましにやった」(とはいえ、これは再犯の理由)という理由が語られていました。本当にそういう効果があるんだろうなぁ。そして、実際再犯する人を見てくると「日本人の順法精神は大したものだ」には至極納得。

<34ページ プロセス依存症2 買い物依存症と浪費癖 より>
 浪費癖で問題になるのは夜の歓楽街での大盤振る舞いや外国製自動車の買い換えで、多くの場合、男性の問題です。当人は宴会などの場を楽しむといっても飲酒が好きなわけではなく、ただ友人たちを自分に引きつけるために散財しているのです。要するにこれもまた人間関係に難のある「さびしい人」の問題です。

うちの父親には、この側面もあります。2年前くらいのことですが、飲み屋で知り合った45歳くらいの無職の人に、おごりまくっていました。「仕事でトラブルがあって仕事をやめて、人生を考えているかわいそうな奴がいてな。うつ病っていうのかなぁあれは」とのことでした。自分のお金が間接的にそういうところに流れていくことに、はじめはトホホな気持ちがあったのですが、「ここ乗り越えずにドネーションとか言えねぇ」「いや、わしの金じゃない。世の中の金だ」とかいろいろヨギっぽい理由をつけてしのいでいました。
ほどなくして、たぶんその人と関わるところでまた腹の立つことがあったのでしょう、疎遠になって終息した。父にはこういう見栄っ張りなところがあることを子どもの頃になんとなく感じていたので、腹が立ちつつもパターンとして認識し続けることをまずやってみた。そうしたらやっぱり身につくし、免疫はできる。

<44ページ 自助グループ より>
 自助グループというものは、同じ悩みを持つ者同士が完全に対等な個人として、過去の自分の体験を持ち寄るところに意味があるのであって、その中の一人が、カウンセラー化し、他のメンバーにお説教を垂れるようになると、自助グループとしての魅力と力を急速に失っていくものです。

これ、想像がつくなぁ。

<61ページ 防衛としての依存症 より>
 依存症が定着し、発展している人では、不安に対する耐性が著しく低下してきます。ちょっとした言い争いや感情の乱れがわが身を引き裂くような耐えがたい不安の源になってしまい、これを抑えようと急いで依存行動に没入するのです。依存症に走ることが、不安をコントロールする唯一の方法と、思いこんでしまっているわけです。

これは、実際そうだと思う。警察に諭されたり娘を悲しませたりして反省する一方で、耐性が落ちる。反省を乗り越えて強くなってほしいのだけど、逆の方程式がはたらく。

<70ページ 怒りが抑制されるしくみ より>
親の子に対する過剰な世話焼きは、愛から発しているとしても、子どもが親の愛に報いようとするあまり親にとって都合のよい「良い子」になってしまうという場合があります。こうしたとき、子どもは親の期待に合わせて「自分」を失なった、自分が親に「呑み込まれた」という怒りが生じます。僕がこうなってしまったのは、私がこういう風な生き方をしているというのは、みんな親のせいだ。という怒りです。こういう大切な人への怒りは見捨てられる不安を催起しますので、抑圧されることが多いのです。
 赤ん坊があんなに無邪気に怒れるのは、「見捨てられる不安」や「呑み込まれる不安」がないからです。そもそも赤ん坊には他人という概念がありません。この種の不安は、一部の人々には病的に強く見られます。こうした人の場合、怒る代わりに相手をいろいろなかたちで振りまわします。そして、ちょうど自分が怒ったのと同じような効果を相手に与えるのです。相手を困らせる、周囲の大切な人々を疲弊させ、自分のことだけで頭が一杯になるようにさせるという一種の「いじめ」です。これは夫と妻の間でも、親と子の間でも、いろいろなかたちで起こります。

赤ん坊が〜のところについて触れたくて、その前の部分も引用したのですが、インドの聖者のオッサンが、赤ん坊を題材に同様のことを説いてくれています。他人の概念がないというのは、差別も区別もないわけなので、強いんですね。「10件売れてるのに1件のクレームでどよーん」とかなっていてはいけないわけです。

<72ページ 適切な怒りと不適切な怒り より>
 依存症者は必ず二重人格です。それは、酔った自分と醒めた自分というかたちの二重人格なのです。逆にいうと、酔った自分と醒めた自分を巧妙に使い分けているのが依存症者です。
自分の怒りを抑えに抑えて、無気力になり、これで生きにくくなると酔った自分に戻ろうとします。そうすることで、醒めて生きにくくなった自分を、救おうとするわけなのです。
 アル中が治りにくくなっている、過食症が治りにくくなっている、という場合には、こういった使い分けが巧妙に行われるようになってしまっているということなのです。都合のよい時にだけ酔った自分に戻り、酔った自分には何の責任もないと言いながら、相手を滅ぼすようなかたちで怒りをばら撒くわけです。そうしておいて、今度はコロッと変わってしらふの自分に戻り「昨日は済みませんでした。覚えていません」と言うのです。それもこれも、相手を滅ぼすようなかたちの怒りしか表現できないために起きてくることなのです。

ほんと、そうなんですよ。家に帰って「ただいま」の後にきくのは、「いま普通?」です。
ちなみにこれが「父親モード」のときは爆裂すごい行動力を発揮します。わたしがインドへ修行に行ってたとき、勝手に帰る日程を一日読み間違えて、なんと国際電話でインドの親方のところへ電話をしてきた。いきなり「国際電話+英語交渉、しかもインド人相手に」という技を出すもうひとつの人格にはマジで驚きました。もっと驚いていたのは、その電話を受けて朝の5時にわたしの部屋までかけつけてくれた親方だけど。

<138ページ 肥大した自己愛 より>
 子どもをほめそやし、可愛がるだけの親がいるとしたら、それは危険です。ほめられ慣れている子どもは、たまたま親がふつうの態度で接すると拒絶されたように感じてしまいます。ちょうどごちそう慣れした人が、ふつうの食事をまずいと感じてしまうようなものです。
 こうした育てられ方をした人には、かえって健全な自己愛が育ちません。家庭の外の他人は、そんなにほめてばかりくれませんから、家の中にこもりがちになり、仲間と一緒に健康な社会的成長を遂げる機会を逸してしまいます。そしてついには、そうした自分を憎むようになり、そのように自分を育てた親をも憎むようになるのです。もちろん、子どもは叱られることを好みませんが、適切で思いやりのあるしつけには積極的な反応を見せるものです。要するに、しつけの内容そのものよりも、その際の親の感情を敏感に嗅ぎ分けるものなのです。

「適切で思いやりのあるしつけ」というのは、本当にむずかしいと思う。ものごとに「これは思いやりなんだ」って感じる力を育てるってことだから。90がゼロよりも100に近いことはわかりやすいけど、51が100寄りにあることとか、少しずつ「思いやりとして受け取れる幅」を広げていくって、むずかしい。この解釈のバランスについては「デッサンをする」とか、そういうことから学んできたんだと思う。「このグレーはどういうグレーか」というのを認識するトレーニングね。

<170ページ 偽親 より>
 私は、かつて夫がアルコール依存症であった四五組の夫婦に詳細に面接調査したことがありますが、妻の立場にある人の三○%が、アルコール依存症の父を持っていました。一般人口の中の問題飲酒者の割合は、高く見積もっても三%以下ですから、一○倍以上の高頻度ということになります。アル中の娘がアル中である(あるいは将来アル中になる)配偶者を選択しがちであることは、以前から指摘されていましたが、私は目の前にその事実をつきつけられて考えこんでしまいました。

インド人とかムスリムの人なら確率を下げられるはず! と、わたしはまだ夢を持っている(笑)。

<182ページ 「行きづまり感」と死 より>
 依存症者は、その時までの自分の問題など、その気になれば一挙に解決できるという誇大妄想の中に閉じこめられているのです。「酒を止めろだって? わかったよ。簡単だよ、そんなこと。その気になりさえすれば」というわけです。

「コノヤロウ、うすらバカ。俺だってその気になれば……」って、頻出フレーズだなぁ。すぐ頭によみがえる。

<184ページ 本人に対する一切の思いこみを捨て、白紙に還る より>
 相談に来られた家族は、依存症者本人の問題行動を並べたて、被害者である自分の立場を涙ながらに訴え、そして「一刻も早い解決」を希望します。この種の「解決」というのはいつも決まって、本人を何らかの方法で拘束し、どこかの精神病院へ送りこむというもので、家族はその際の援助を私たちに求めてくるのです。私にはこの種の偽似解決が、デパートの包装紙に包まれた贈り物のように思えるので「パッケージ解決」と呼んでいます。本人の問題点も家族の否認も、すべてが小奇麗な包装紙に包まれて、一見体裁がよく、何も解決されていないのに、病院に入院させた家族はホッとして、私たちに感謝の言葉を怠りません。そう、包装紙は相談を受ける側の実力も隠してしまっているのです。
 私たちが、家族にパッケージ解決以外の解決法を提案すると、大方は拒否されます。拒否の理由は、「私は何年も彼(ないし彼女)とつき合ってきた。その私が言うのだから間違いない」というものです。私たちが、まず家族に対する粘り強い対応から仕事をはじめねばならない、と改めて自分に言い聞かすのはこうした時です。

大変な交渉なのだろうなぁ、と思います。わたしもはじめのうちは「解放されたい!」という思いに苛まれていました。でもそれは、「いままでどおりに暮らしたかった」という自分が生み出した幻想への執着でしかない。「終わらない苦しみ」という存在をとにかく避けたいのが人間の弱さだと思うのだけど、「終わるって、どういうことだ」と考えると自分のエゴがあぶりだされるんです。


この本を読んで、ひとつ、ヒントを得た。
「原因はたくさんある」ということと、「本来愛しいはずの娘であるわたしを、ののしっているんだよ。別人格のときに」という話を認識しやすいように、父が「原因」を話しやすいように話すことにトライしてみたんです。
話せそうだな、というフックは1ヶ月くらい前につかんでいました。父は自己破産をきっかけに今のようになってしまったのだけど、サラ金関連のニュースを見ながらふと金額の話をつぶやいたんです。そのときに、少しだけ「借金の保証人になってしまったこと」について話していた。知っている話だったのだけど、あまり口にしないような風潮になっていたんです。嫌な話を聞くと怒り出しちゃうので。
この、ふと出てきた話から、今日は「そのことについて父が感じていることを教えて」という形で話を進めました。そうしたら、新潟から「父さんは、もうだめだ」と電話してきた3年前に何があったかの話になり、その数年前の範囲の話になり……、というふうにさまざまなエピソードや誰のことが信用できないのか、なにに腹が立つのか、などの話に及んだ。
1時間くらい話したかな。トータルでさかのぼるとさまざまなことが繋がっていて、祖父が事業家としてやってきたことにまでにさかのぼる。
「なんであの保証人に印をついてしまったのか」という後悔とあわせて「俺が2億5千万くらいポン、と貸せる人間だったら……」というのが出てくる。「普通の後悔」と、「それでも見栄を張りたい欲望」が「らせん状態」なんです。


3年前、「もうだめだ」というよくわからない電話が来て、「もうだめだ、って、どういう意味?」の後は、それ以前から周囲の人に迷惑をかけまくっていることを知っていたので一気に生活を変えることを決めたのだけど、3年かからないと紐解けなかった事実が今日、わかった。
うちこに「もうだめだ」という電話をする前、父は信頼する友人に借金をした本人である実兄を会わせたそうなんです。そしたら「正直に言うよ。ありゃ、ダメだ」と言われて、薄々感じていたけどまだ少しは望みをもっていた「ダメすぎる兄の存在」が自分の中で決定的になったのだそうです。


わたしへのバトンはこの後に回ってきたのだけど、経緯はまだまだこれから出てくるのだと思う。
今までは「別人格のときのこと」だけしか話してこなかったのだけど、「原因のもうすこし根っこ」に触れたことで、父が「病院へ行く」と言ってくれました。
そんな折にも、「おまえは、父さんがそういう病院に行っていることが恥ずかしくないのか」と言われて笑うしかなかったのだけど、この本を読みながら「極端に依存する人の背景」に触れていたので、それもまた興味深かったです。
「あのねぇ、そもそも "今のお父さん" は、病院へ行く以上にがっかりブランドなわけ。そんでもって、あなたが偉大と感じて比べて見栄を張りたい "わたしのおじいちゃん" は、息子を甘やかしてこんな後世の種を蒔いて、なんてことしてくれたんだ、っつう話なわけですよ。今のあたしにしてみれば」という話をいつか、できたらいいな。そうしたら、きっと笑って暮らせる。
もちろん、今は亡きおじいちゃんにも感謝をしている。でもわたしたち父娘は、今を生きないといけないんだ。


今日は「父が信頼する友人」からポストにゴルフコンペの誘いが届いていて、この人は今でも父を見放さずに連絡を続けてくれる。今日は話の流れにその重要人物が出てきて「あ、この封筒送ってくれた人ね」「そうそう」と話がうまく流れた。
子どもの頃に会ったことがあるおじさんなのだろうけど、顔は覚えていない。
すごく感謝しなければならないと同時に、「きっとこれからも、助けてくれる」と思う。
勝手に感謝して、勝手に頼りにしている。

依存症と家族
依存症と家族
posted with amazlet at 11.04.24
斎藤 学
学陽書房
売り上げランキング: 204506