うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インド人の頭ん中 冬野花 著

友達のダンナさんが貸してくれました。インドへ短期間ホームステイをしたのはもう7年も前のことになりますが、その時のことや身近なインド人の言動を思い出していろいろ激しくうなずきながら楽しく読みました。
「インド人ちゅー奴は!」系の本は過去にも何冊か読んできましたが、歳の近い女性の書いているものは時代感もシンクロするし、日本とインドを比較するとき、「社会との接し度合いのモノサシ」のスケールが近いから、お友達の話を聞いているような感覚。


何箇所か、激しくうなずいたところを紹介します。

<18ページ リトルガールなんかじゃない より>
インドでは、「娘」というのは、保護すべきものであり、父親の所有物である。結婚すると、夫の所有物になる。だから、女の子は「知らない人としゃべってはイケナイ」「一人で出かけてはイケナイ」と、ナイナイづくしで育てられる。一人で旅行なんて、もってのほかである。
(中略)
 そんなインドで、私は数日間、軟禁されそうになったことがある。

うちこも、インドのステイ先のまわり(団地の敷地内)をフラリと散策に出ただけで「いない! どこいったー!」と大騒ぎでした。すぐそこにいるっちゅーのに。


<68ページ 取れていいとはいってない より>
インド人は、なぜかあまり蚊に刺されない。たぶん、皮が硬くて分厚そうなのと、血液の中に長い間かけてスパイスの成分を取り込んでいることが、功を奏しているのではないかと思われる。

うちの師匠も蚊に食われないらしい。奥様談。


<73ページ デリーで納豆 より>
「なぜ、インドでは、ちょっとした工夫というものすら、されないんだろう」
「なぜ、改善・向上の精神が欠落しているんだろう」

なぜだーーー!!! 


<88ページ 俺たち、死ぬにはまだ若いんで より>
カースト制度などに見られるような、徹底した「差別・区別」がある反面、インドには「否定」がない。何でもかんでも混ぜこぜのまま、あるがまなに放っておく。存在は認める。あとは神様にお任せする。「もしも」崖から転落して死んでいたら……などとは発想せず、結果を見て、「それがすべてだ。すべてそれでいいんだ」と、みんなが納得する。その「結果」には、運、運命、かかわった者の言動、神様の意向、それらすべてが含まれる。
 インドの「結果オーライ」な物事の受け止め方に、私はいつも、一休さんの「ナルヨウニナル、シンパイスルナ」の言葉を思い出すのである。

うちこも「ファンシイダンス」のセリフ「あるがままなり。」のモックンを思い出します。


<100ページ それがバターだってば より>
(インドではあらゆる階級の人が接し合って暮らしているが)、彼らは絶対に混ざり合わないのである。
 例えば、知り合いの家の十五年来の住み込みの使用人は、その家の子どもにとっては「乳母」のような存在で、子育てに関する雑用はすべて、彼女がやってきた。ところが、どんなに気心が知れようと、決して同じ食卓を囲むことはない。彼女は、家族が仕事を終えた後、キッチンの隅の床で一人で食べるのだ。

使用人でなくても、うちこもインドでマタジ(母)とは一緒にご飯食べる機会がなかった。キッチンでは一緒にお料理したのだけど。


<125ページ 「無い」ということは無敵なのだ より>
(カメラを子どもにこっぱ微塵に壊されたエピソードの後)
貧しい国では、結局、立場が強い側が涙を飲むことになる。そして「タダほど高いものはない」というように、「無いほど強いものはない」ということだ。
 相手に償う力がこれっぽっちも、一ミクロンも見当たらないのだから、どうしようもないのである。

ほんと、無いほど強いものはない。


<141ページ ラームラームラームラーム より>
「神様の名前は唱えれば唱えるほどよろしい」というのには、実は科学的に説明できる理由があるそうだ。
 人間の体には、気の流れや量を調節している「チャクラ」と呼ばれる七つのポイントがあるという。そして、そこを中継地点として、私たちの精神と肉体はリンクしているのである。例えば、ストレスをためると胃に来るのは、精神と肉体がつながっているからだ。チャクラは目には見えないが、それぞれのバイブレーション(周波数)を持っているそうである。(中略)そして、神様の名前というのは、私たちのそれぞれのチャクラとうまく呼応するような「ありがたい響きを持っている音」なのだそうだ。「ラーム」という音にも、独特の響きがあるということである。

ふむ。


<238ページ 心の噴火警報 より>
 さて、デリーでの生活では、このようにして、心に暴風・噴火警報が鳴りっぱなしで、何かにつけて、カウンターパンチを食らうわけだが、だからといって、日本の生活にストレスがないというわけではない。
 デリーで受けるストレスは、「バッコーン!」「たっやな、コラァ!」という種類のもので、まるで筋トレのような、何かを鍛えられているようなストレスである。ストレスを受けたことがはっきりとわかり、しかも複雑ではない。
 しかし、日本の生活で受けるストレスは、まるでガンのように恐ろしいと思うことがある。気づかないうちに、少しずつ、少しずつ、やる気や元気を奪われていく気がするのだ。ヤラれたことに気づかないくらい絶妙な、表面的には「正しいこと」「いいこと」っぽく思われていることの中に含まれる侵食細菌みたいなものに蝕まれる感じで、気づくとウツロになっている。
 自分の心に正直に生きようとすると、自分の欲求にすら気づいていない「なんとなくいい人」たちに、「なんとなく」「いつのまにか」引きずり降ろされてしまう。
(中略)日本は日本で、けっこうワナが多く複雑な社会だ。

『自分の欲求にすら気づいていない「なんとなくいい人」たちに、「なんとなく」「いつのまにか」』実は足を引っ張られている。というのをオブラートに包んでいらっしゃる。


久しぶりにインドの現代ものを読みました。


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冬野 花
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