うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

西洋と東洋の祈りの考察(「静坐のすすめ」より)

以前「静坐のすすめ」からの引き出し紹介として新渡戸稲造さんの「黙想」について書きましたが、今日は同じ本の中にあったカルメル会一神父(個人名を名乗らず)さんの書かれていた「キリスト教の黙想」の章を紹介します。とても興味深い考察でした。
うちこはこの日記でヨーガや禅、真言宗の阿字観、タオイズム、チベット密教など、「東洋の祈り」については何度も書いてきましたが、キリスト教については自身に実践の経験が無いため、書くことがありませんでした。キリストの教えに触れているのは、パラマハンサ・ヨガナンダ氏の本の紹介を通じて書いたことがある程度。
カルメル会(リンクはWiki)は、12世紀にB修士という人によってパレスティナで興ったキリスト教カトリックの修道会だそうです。うちこの家から歩いて20分くらいのところにカルメル会の「カトリック上野毛教会」というのがあることを、後で調べて知りました。

西洋の祈りの立場から、東洋の祈りについても併せて理解のうえ、図解でその性質の違いが語られています。「が祈る」「で祈る」という表現を使って、その違いを説明されています。読んでいるうちに、このカルメル会の神父さんが「キリスト教で、禅の人」のような印象で、類まれなる冷静なバランス考察をされる方であることがよくわかります。

<198ページ 調息・調体・調心 より>
 西欧の祈りについての本を読みますと、私たちカルメル会という東方神秘主義に源をもつ極めて瞑想的な修行生活をしているところであっても、知性的要素が支配的であることに気づきます。すなわち、息や体を調えることではなくて、「頭を調える」ということに説明が集中されています。東洋の祈り方には「体と心」があるが「頭がない」、西洋の方法は「体なし」の「頭と心」、この面白い対照に気づかされたわけです。

気づいちゃったんですって(笑)。この語調とスタンスから、もうハートをがっちり掴まれちゃいました。

<204ページ 「が祈る」と「で祈る」 より>
心を調えるにしても、体を調えるにしても、「調える」ということは、しっかりと祈りの「地固め」をすることです。ここで、もし「心」というのを「精神」と区別して使うのでしたら、人間の上部領域全体を指して「心」と言い、その心の機能組織または機能構造を「精神」と呼んでもよいと思います。すなわち「精神」は、その内部構造として、一番上部にあるペルソナとしての自己を含む領域を意志としてもち、次に知性、想像、感情というふうに、次第に下部領域、体に接近していくと考えられます。というのは、意志という精神機能がいちばん主体性を生みだす支配力をもち、知性、記憶と下るにしたがってペルソナと遠ざかってくるからです。体との関係が最も密接なのは感情であり、少し離れて想像ということになります。その下部にある体には、常識的にいわれる五官があり、それぞれの機能構造を築き上げています。

頭で考えることとペルソナが近いところにある、という説明で「煩悩」を語られています。

<204ページ 「が祈る」と「で祈る」 より>
心を調えるにしても、体を調えるにしても、「調える」ということは、しっかりと祈りの「地固め」をすることです。ここで、もし「心」というのを「精神」と区別して使うのでしたら、人間の上部領域全体を指して「心」と言い、その心の機能組織または機能構造を「精神」と呼んでもよいと思います。すなわち「精神」は、その内部構造として、一番上部にあるペルソナとしての自己を含む領域を意志としてもち、次に知性、想像、感情というふうに、次第に下部領域、体に接近していくと考えられます。というのは、意志という精神機能がいちばん主体性を生みだす支配力をもち、知性、記憶と下るにしたがってペルソナと遠ざかってくるからです。体との関係が最も密接なのは感情であり、少し離れて想像ということになります。その下部にある体には、常識的にいわれる五官があり、それぞれの機能構造を築き上げています。

キリスト教祈りにおいては、精神機能の調えという領域の整地作業よりも、いっそう中心的事実として現われるのが、祈りの主体Aのペルソナ的性格ということです。「私神に向かい神わたしに向かう」「神私をみつめ、私神をみつめる」という、ペルソナとペルソナの出会いということが、キリスト教祈りの中心になってきます。ということは、キリスト教祈りにおける基音(Grundtom)は、「心や体を調える」ということではなく、「神に向かう姿勢」ということです。
(中略)
 キリスト教祈りは「体祈る」とか「心祈る」あるいは「体とともに祈る」という祈りのヨコ糸を取り出すよりも、「心祈る」「体祈る(le corps qui prie)」「私自身が体ごとそっくり神に向かう」というタテ糸が重大なわけです。こういうことはもちろん、祈りにヨコ糸はいらないというのではなく、タテ糸が中心になり、ヨコ糸に全面的上昇志向性を与えてくれるということです。このことは、たいへん重大ことで、実際的な問題と深い関連をもっています。
 というのは、心も体も調わないほど落ち着かず、荒んでいるときにさえも「祈る」ということはあり得るか、という問題に論理的な解答を与えてくれるからです。
 また反対に、「心が落ち着き、体が立派な姿勢をとれば、よい祈りができたということになるか」という疑問にも答えてくれるからです。
 答には、場合によってさまざまのニュアンスがあり、細部の分析にもとづいて説明する必要がありますが、簡潔にいって前者には「イエス」、後者には「ノー」と答えることができます。
 今までの説明をここにあてはめれば、この結論はすぐに理解していただけることと思います。キリスト教祈りが「祈る」のでしたら、「心祈る」ことも「体祈る」こともできなくなったときには、「祈り」ではなくなってしまうと言わなくてはなりません。身も心も調子が狂ってしまってはおしまいだからです。しかし、真の祈りは「祈る」のではなく、「祈る」ことにあるのなら、そこに何かの突破口があるはずということです。
 X→L→A、Y→N→Aという傾斜的上昇志向をつくる祈りの道は、崖くずれや倒木などではほとんど完全にふさがれてしまっていても、M→O→Aというペルソナ的直線的上昇志向がガムシャラに最後の一線を確保してくれることがあるということです。どんなに山が険しくて登れそうになくても、山の中軸はまっすぐに頂に向かっているはずですから。そこでは「ただひたぶるに、向かう祈り」「向かうだけ祈り」で、「調える祈り」でもなければ「歩み出す祈り」でもありません。じっと一所にいすわったまま、あるいは、ただ倒れたまま見上げているだけの祈りです。それを私は「タテ糸の祈り」またが「A←Mの祈り」というわけです。
 このぎりぎりにまで追いつめられたとき、祈る心も湧いてこない、そのとき、はじめて「祈りとは何か」ということがわかってくるものです。祈ることができなくなってしまったとき、「祈らせてくださいと祈る」「祈ることができないのですと祈る」、このような祈りの局限状態に追いつめられてきませんと、「祈り」が「何か私のすること」「人間のいとなみ」のように考えられて、そのような人間中心的、自己中心的性格から抜け出られないままでいます。私が「無」に帰せしめられて、その私の完き廃墟に萌しはじめる「神の営み」、それが真の意味での祈りであることに気づくことまでいかないままでいるわけです。
 このようにみますと、「祈る」ということは、キリスト教祈りにおいては、さらにいきつくところ「私が祈る」ではなく、「神が(私の中で)祈る」ということになってこなくてはなりません。

『心も体も調わないほど落ち着かず、荒んでいるときにさえも「祈る」ということはあり得るか』という時点で、おっとこっからヨーガに来るか!?と思いきやそうではなく(笑)、タテの祈りとヨコの祈りのベクトルの性質について述べた上で、「どんなに山が険しくて登れそうになくても、山の中軸はまっすぐに頂に向かっているはず」というタテ糸の重大性にちゃっかり戻る。
そして最後には「ぎりぎりにまで追いつめられたとき、祈る心も湧いてこないときに、"無"に帰せしめられ、それが真の意味での祈りである」と展開し、「神が(私の中で)祈る」ということが正であると結論づける。ヨガやんけー!(ノ゜◇゜)ノ
ひとえに「どの教えも述べていることは同じなのです」というような聖師たちの言葉を何度も読んだことがありますが、この神父さんの説明はすごいわ。シビれました。

<211ページ 「が祈る」と「で祈る」 より>
 祈りとは「神との対話」であるといわれますが、むしろ、ここでは、祈りとは「神のみ前で黙する」ことであるといった方がよいでしょう。さらに突っ込んでいえば、「神のみ前にある」ただ「そこにある」という姿勢になりきるとき、祈りは、「祈る」何ものでもなくなり、ただ「祈る」姿勢だけになってしまいます。

最後の「なってしまいます」は否定的な意味ではなく、そうですよ、ということ。うちこには、「シンプルに祈る」ということは、マハルシ師の教えと共通するものであると読み取りました。きっと神父さんは「人間が生きていくうえで、上昇志向性は必要ではないのか?」ということと「タテ糸の重要性」について考え抜いている人であったのだと思います。
そして、日本人には「煩悩」とか「邪念」という、けっこうみんなが普通に使う表現があるのが、とってもこういうことの理解において便利な状況だなぁと思うのですが、それがないと「上昇志向性」という表現の上で切り分ける教えがなかなかにしずらい。「サタン」じゃ、われわれにとってはえらいニュアンスが違うし。
日常の中で祈りについて語るとき、持っているボキャブラリ風土と浸透の性質についても考えさせられました。


今日はわりと運動神経的に書いたので、「ややこしいよ」と思う人もいらっしゃるかもしれませんが、「戦争と祈り」について思うとき、理解できないとき、アメリカ状況をかんがみるのに「上昇志向性」ということばが何かの手助けになるかもしれない。そんな感想を抱きました。

▼静坐のすすめ紹介は全5回。このほかの4つ。
静坐のすすめ 佐保田鶴治/佐藤幸治 編・著
「修養」の第十四章「黙思」 新渡戸稲造 著(「静坐のすすめ」より)
岡田式静坐法、藤田式息心調和法、二木式腹式呼吸法(「静坐のすすめ」より)
中国の静坐、日本の静坐(「静坐のすすめ」より)

静坐のすすめ
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