朝日新聞の連載をまとめたもので、「これまで口にしたことないことを、これまで書いたことのない文体で書いてみよう」というコンセプト。実際読んでみた印象は、なるほどこういう「やわらかい」降り方をされるのね、と。それは普通に好印象を受ける「頭のよい女性」の綴った言葉。このくらいは難ないけれど、ジェンダーを語るうえでは期待された「強さの演出」をいつもはしています、とも言い換えられそうな。いろいろな意味で、これまで以上に「サービス精神の旺盛な人」という印象を持ちました。
うちこはお友達に借りるまで、上野千鶴子さんを知らなかったのですが、「ものすごくエネルギーがないと言い続けられないことを言い続ける」という点や、そのメッセージに感じるエネルギーの質が「だってそうなんだもん」というところに惹かれます。そして、「決してモテない人生を送ってきたわけではない人」であることは、「SATC見てる女子がなんとなくイヤだ」と思ってしまうような男性にはわからないだろうなと思います。
いくつか、面白いなと思ったところを紹介します。
<12ページ もと優等生 より>
あるパソコン少年に会ったとき、パソコンに強い子は優等生だろうというわたしの思いこみはくつがえされた。パソコン少年は学校の成績がいいとはかぎらないと彼は言う。機械は愚直なものだから、機械語がしゃべれるには機械につきあう愚直さが必要で、パソコン少年には要領がよくて器用な子は少ないといきっとそうなんだろう。
わたしのこの能力は、シンクタンクや広告会社でアルバイトをしたときにも発揮された。情報という雲をつかむような商品を発注するクライアント(注文主)は、しばしば、自分が求めている答えを知らない。しかも、まとはずれの答案を出せば「いや、これは自分のほしい答えとはちがう」と首をヨコにふる気むずかしい客だ。
相手が自分でさえ自覚しないかくされた期待を探りあてて、「ほら、これがあなたのほしかった答えでしょ」と目の前に出してあげるのが情報生産者の仕事である。
「正しい答え」や「わたしの気に入った答え」なんて出しても、商品にならない。
ここまでIT職者が増えた今では、もう構成比的に市民権がっちりな人たちですが、うちこの周りにはいわゆる「昔はパソコン少年と定義された人」がたくさん居ます。「機械語がしゃべれるには機械につきあう愚直さが必要で、パソコン少年には要領がよくて器用な子は少ない」というのは、「ちゃんとした表現ができる技術者」にスポットがあたる昨今、レアな傾向になりつつある。愚直でいいのですがと。中途半端に「ちゃんとした風味の表現、コミュニケーション」を目指した動きをされるとかえって面倒臭い。「そんなことをするよりも、エゴの培養ではなくちゃんと女性に向き合う恋をしたほうがいいわよん」と思いますよ。おねいさんは(笑)。「ちゃんとした」の本質は「色気」なんですよ、きっと。
<22ページ ナルシシズム より>
男は、条件付でなら、女を抱きとめてくれた──かわいかったり、バカだったり、要するに自分につごうのよい範囲でなら。でも、ほんとうのところ、男たちも、もろい自我をつくろうのに必死で、あかはだかのヒリヒリする自我を、体重ごとドーンと預けてくる女に、とてもつきあってなんかいられなかったってことが、今ではよくわかる。
最近、草食というワードで救われはじめましたね。ある意味正常化。
<70ページ 脱テンション より>
わたしは自分をテンションの高い反応体だと考えている。反応体それ自身には、自分が何ものであるか、たしかな輪郭はない。反応を誘発してくれる外からの刺激がないと、反応体の輪郭は定まらない。
わたしはそうやって、情報の中を、人のあいだを、走る。風圧が強いほど、わたしというものの輪郭がくっきり定まる。向かい風が強いほどがぜん元気が出る、というやっかいな性質は、このせいのようだ。
いったん走り出したヨットは、無風に近い状態でも、自分が巻きおこした風によって走る。それが同じように、風のないところでは、わたし自身が風を起こして走る。走っている間は、わたしがわたしでいられる。「わたしって何?」の問いは、おそらく、止まった時にしか出てこない問いだろう。
「わたしって何?」の問いは、うちこはここ数年ありません。という点で、共感。
<85ページ 離脱の戦略 より>
(瀬戸内寂聴さんについて書かれています)
「世を出る」とは、皮肉なことに身を「世に捨てる」ことであったのだ。出家してからの彼女は、プライベートな時間など、ほとんどないように見える。自分の時間を、自分のためにではなく他人のために使おうという決意のようなものが伝わってくる。世間から距離を置くはずが、かえって世間にまるごと身をさらすことになるのが「出家」の逆説なのだろうか。
そもそも「出家」の概念が「隠居」であったということなんでしょうね。「自分のためにではなく他人のために」となったとたんに忙しくなるのはとても自然なことのように思います。
わりとエッセイ的に読める雰囲気でありながら、自分や身近な人の思考背景解体をされているような気分になる一冊でした。