うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む

この本を読んでいる間に、自分の考え方がヨガをしているうちに少しインド化しているかもしれないことに気がつきました。
以前いくつかインドの教典を読んで、章組みと内容のまとめかたが、昔に書かれたものにしてはすごい構成だなぁ、と思っていたのですが(内容が実践哲学だけに)、その謎もちょっと解けた気がしました。

いつものように、心にメモしたかったところを紹介します。

<72ページ 分類するインド人「驚くべき記憶力」 より>
記憶力の良さは単に能力だけの問題ではなく、それを生かすための記憶術の問題でもある。基本的に口伝が知識を伝える手段であったころ、記憶するに便利なように、教説や学説を警句や金言のような短い散文の形にして、まるで美しい花びらを糸に通して花輪を作るように、それらをまとめていった。そして、これをスートラ(糸)と呼んで、弟子たちは師の注釈とともにそれを学び記憶したのである。したがって、インドの多くの学派はみずからよりどころとなる教説をスートラとしてもっている。

「教説や学説を警句や金言のような短い散文の形にして」という、花びらのたとえのディテールはここで初めて読みました。散文でまとまっているところが最大の特徴で、その小見出しのタイトルの構成がすごいんですよね。


<76ページ 分類するインド人「分類名と整理術」 より>
インド人の分類の仕方は、ある程度系統だってはいるものの厳密ではなくむしろ便宜的で実用的な色合いが強い。算術式の機械的な分類というのはあまり好まれない。そうではなくて、実際に見られる特質をうまくつかんでそれを分類の名前にするという方式がよく用いられる。なぜならば、便宜的な分類であれば、あらゆるものが何らかの形では分類づけられ漏れることはないからである。機械的な分類は、分類条件が増えればたちまち今までの分類が反古となってしまう。もしそうなると、一から考えねばならず、記憶にははなはだ都合が悪い。

タグ付け感覚。


<133ページ 眠っていても目覚めている「認識主体は熟睡中でも目覚めている」 より>
インド哲学の常識として、自己は心や身体とはまったく異なる。インドの哲学者たちは、デカルトのように、心を自己と見なすような軽はずみなことはけっしてしない。熟睡しているのは、あるいは失神しているのは心と身体であり、シャンカラ流でいう見る者、見ること、つまり認識主体である自己は、熟睡中でも失神中でも、つねに目覚めているのである。だから認識主体である自己はいかなるときにも断絶がないのであり、したがってわれわれは、安心してそれが常住であることを確信できるのである。

ヨガをするようになってから、感覚的に変わったと思うことを説明するのにちょっといい。「あ、ぐっすり寝たな」ではなく「あ、ぐっすり寝たと頭が感じているなぁ(身体のときもある)」という思考。基本的に、身体の部位とか気持ちの部位を切り分けて見るような感覚になってきている。


<148ページ インド哲学が言語と論理を重視するわけ「インドの『学派』は長い歴史を持つ」 より>
インドでは、学派に属する限り、哲学思想の基本的な問題は時代とは関係なく一貫している。テーマが一定であれば、思考というのは時代に大きく左右されるものではない。

(中略)

だから、時代や人種に関係なく、私たちは昨日別れた友人と話をするように、ヴァーツヤーヤナやウッディヨータカラの作品に入っていくことができる。

(中略)

したがって、昔のことだから読んでもなかなかわからないだろいうという先入見は、インド哲学では持たないほうがいい。それよりも、逆にインド人には歴史観念が欠如していることを心配したほうがいいかもしれない。哲学問題は普遍的であるのに、どうして「だれがいつ」考えたかなどということが問題になるのだろうか、というわけなのである。思想史的な関心が外国人の学者よりインド人学者に弱いのは、こんなところに理由があるのだろう。

真理を自分で見つけたものと思わない、「それは自分だけの知識ではなく、真理だから」というシンプルな考え方なのだと思います。独占欲を、独占できっこないものに働かせない、という感じでしょうか。


<183ページ 出しゃばる感覚器官「穴のあいたバケツと窓を開く宮殿」 より>
ヨーガ学派では、ヨーガの行法に八つの階梯を説くが、その中に「静感」という階梯がある。これは感覚器官をその対象から引き戻し、感覚器官が対象に向かうのを押さえることである。亀が手足を引っ込めるように感覚器官が引っ込んでしまうと、感覚器官は心に追随するだけであって、心が専念状態にあるときには感覚器官もまた外界を知覚することはないのである。
現代科学や哲学が、自分を制御できずにキレてしまう人々に有効なアドバイスを施せず、「キレるな」とすら言えないのは、そうするだけの思想がないからである。

ほんと、そうなんですよね。「自己を制御してね」なんてまともに言うととんでもない反響が返ってくるだろうし。


<189ページ 楽は苦の種「無常観に見るインド人と日本人のちがい」 より>
「佛」という字は、「ブッダ」の音を写すために中国で考案された文字であるが、「沸」が「水が消えてなくなる」を意味するように、「佛」は「人が人でなくなる」をイメージさせているのである。うまい漢訳語である。

ほんとうまいわ。ミッキーマウスももっとうまく作ってくれ中国。



この本を読んでいて、本当に大多数の日本人は欧米のカルチャーに洗脳されているんだなぁ、と思いましたです。これからも「あると思うこと」「無いと思うこと」(正確には、「そこに無い状態が"ある"」かな)に素直に生きていこうと思いました。ダンニャワード。

ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む
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