これも図書館で借りました。空海さんの、エンジニアとしての側面にスポットをあてて書かれた本です。
人を救うという点で、宗教活動だけでなくあらゆる面で惜しみなく求められることにこたえていった空海さん。その「惜しみなく」という精神は、尊敬の念をどれだけ抱いても足りないくらい。
ここのところ頼まれごとのバリエーションが広い毎日だったのですが、「まーでも別に土木事業までやれっていわれたわけじゃなし、このくらい、やれなきゃだめよね」という気になりました。
空海さんと同じように「全人」的な業を成し遂げた流れとして、役行者さんと行基さんのお話があり、これもためになりました。いくつか、ピックアップして紹介します。
<62ページ 伝道と同行 より>
行基が出家したのは天武十一年(682)、十五歳の時だった。『行基菩薩伝』や『続日本記』によれば、彼は初め法相宗を学び瑜伽論・唯識論を学んだが忽ちその意を了解したとある。
行基さんについては、これまで読んだいくつかの本で、もっと知りたい人のひとり。
<160ページ 空海に至る塔の意味の変遷>
東寺の場合はもともと既存の寺院を空海が下賜されたものだから、その伽藍配置も奈良仏教の形式を踏襲しており、密教的配置にはなっていない。五重塔も心柱が初層まで通っており、大日如来は置かれていない。おそらくは心柱、あるいは塔そのものを大日とみなすことで、この問題を回避したのではないかとされている。
東寺へ行ったとき、同行者のしげさんから「上から見ると、東寺も曼荼羅らしいよ」と教えられたのを思い出しました。
<174ページ 室生寺の森と檜と塔 より>
(章最後の引用エピソードから)
西岡棟梁は法輪寺三重塔の再建にたずさわった時も、補強に鉄材をいれようという意見に対して「そんなことをしたら、ヒノキが泣きよります……。ヒノキには、鉄より長いいのちがありますのや」と述べて、一歩も譲らなかったという。薬師寺西塔の建築に当たっても、木の使い方について述べている(青山茂氏との対談)。
西岡「原木で見ると、一本の木でも節の多いほうと少ない方とありますわな。節の多いほうが陽のおもて、陽おもてのほうが木がかたい。柱にしましても、陽おもてをそのまま持ってきて陽おもてに立てておく。山で生えておった南側のものは、塔に使う場合にも南側に使うということです。」(中略)
西岡「生えてあったとおりに使う。そうすれば、おさまりがええ。くるいが少ない。……自然のままが一番正しいのとちがいまっか。人間それ自身が大自然の恵みのなかに生かされているのやからなぁ……。」
法隆寺へ行ったとき、中門の柱のお話を聞きましたが、その五本の木も同じように生えていた状態に呼応して配置されているのではないか…と思えてきました。
<194ページ 「一日不作、一日不食」 より>
昔から東西の宗教は、信仰のあり方を人間労働の内に見ていた点で揆を一にしている。『新約聖書』使途パウロの書簡「テサロニケ後書」では、「人もし働くことを欲せずば食すべからずと命じたり」と書かれている。これは後世、"働かざる者食うべからず"のスローガンとして広まった。
同じような意味で道元は、「一日不作、一日不食」(一日働かざれば、一日食せず)を実践した多くの先人の例を挙げている(『正法眼蔵』行持篇)
信仰のあり方を人間労働の内に見るのは、わたしもすき。
<220ページ 「全人」と「知識」 より>
もともと空海の資質や才能が多面的なことは誰もが認めている。宗教人として、芸術家・思想家として、教育や社会事業の面においても。私はこれにエンジニアとしての側面をつけ加えたいと思う。(中略)
彼は、飛鳥・奈良時代に活躍した役行者、行基の系譜に繋がっている。象徴関連としていえば、役行者の「橋」・行基の「道」に続く、空海の「塔」である。
「全人」という言葉は、この本ではじめて知りました。「あのひとはマルチだ」のような器用さの表現とは違い、志の感じられるよい言葉だと思いました。