うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガ行者スワミ・サッチダナンダ  シタ・ウィナー著

ヨガ行者スワミ・サッチダナンダ
図書館で「ヨガ」で検索して借りて読んでみました。
スワミ・シヴァナンダ・マハラジ師の弟子となり、東洋、西洋へと伝道の旅をした人の伝記です。来日もされています。後半は1960年代、そうまさにこの日記でもたびたび書いている、ビートルズがインドへ渡ったあの時代のお話になっていきます。いくつか引用する中の最後はウッドストックでの開会宣言。
当時の話についてはヨガ目線、ロック目線、カウンターカルチャー目線とさまざまな視点でみかたがあり、60年代ロックにハマりまくった大学時代を送ったうちこは複雑に興味深く読みました。ティモシー・リアリーとの対話は、ドキドキしながら読みました。だってティモシー・リアリーと言ったらもう、ヒッピー・ムーブメントの頻出人名。以前アップルの創始者スティーブ・ジョブズ氏とLSDについて、本の感想で紹介したことがありますが、LSDとコンピュータの共通点を同じく語った人でもあり。
この辺のお話については横にそれまくっちゃうので、ロックな話はここではなるべく手をつけないようにしているのですが、この本はうちこのここ数年のヨガりっぷりを温かく見守ってくれている音楽仲間にも興味深い内容だろうなぁ、と思います。

話をもどさなきゃ。
ヨギの自伝はこれまでいくつか読んできましたが、なかでもこのサッチダナンダ師の言葉は、ひときわブッダのそれと重なります。エピソードの合間合間に格言や教えの言葉のようなフレーズが挿入されている構成なので、教えの言葉には“”をつけておきます。
最後には、サッチダナンダ師について調べていたらめぐり合った興味深いサイトも紹介します。

<20ページ 第1部「ラマスワミ」より>
バクティ(bhakti)の礼拝方法、祈りと儀式には、機械的(メカニカル)に流れるという危険が存在する。儀式のもつ意味を正しく理解しない場合の危険が存在する。一つ一つの行為にそれ自体の意義と意味があるのだ”
(中略、ヒンドゥー儀式の説明が続く)
供物として捧げるために花や果実、ココやしを集める。果実はこの場合、信仰者自身の行為の結果を意味し、供物を捧げることによって他の行為をすることを免れられるのである。一方、ココやしは、三つの部分からなる信仰者の自己の核心を表わしている。すなわち、繊維質の外皮は心の鈍重さ(tams)、中心部の殻は自我(rajasic quality)を示す。内部の白い堅果は心そのものを意味する。このように信仰者は、聖堂に入る前にココやしの外皮を取り除く。

以前インドへ行ったとき、家庭で行われていたココナッツを使った儀式を見たことがあります。そのときは外皮を取り除いてはいませんでしたが、ココナッツ自体にこの三つのグナをあらわす役割があるとは。この三つのグナ、最近常に意識しちゃってます。

<31ページ 第1部「ラマスワミ」より>
“ただ一つのことが私の心を傷つけた。自分が原因となって他人を不幸にさせたと思うと、私は幸福にはなれなかった。その人間がふたたび笑顔を見せるまでは私はいつまでもすまないという気持ちを捨てることはできないのだ。”

心のメモ。

<34ページ 第1部「ラマスワミ」より>
“世間というものは最初の中はあなたをとことんまで誘惑しつづける。だがある日、あなたは自分が世間のことで夢中になっていることに気がつく。そして、「もうたくさんだ」という。この啓示は世間それ自体から与えられるのである。その啓示のおかげであなたの前に立ちはだかるいろいろの障害物を全部取り除かれ、世間について初めて正しく理解し、それ以上のすばらしいものを求めようとする強い衝動にかられて世間に対して後ろを向けてあるきはじめるのである。”

これも、心のメモ。

<72ページ 第1部「ラマスワミ」より>
“あなたが自分の家族の面倒をみるとき、家族が自分が面倒をみるべき対象として神から与えられたものだと思うようにしなさい。あなたと家族のあいだには深い関係が存在するが、家族は神のものであってあなたのものではないと思わなければならない。彼らを創造したのはあなた自身ではないし、あなたがこの世を去るときにいっしょに連れてゆくことはできないのである。”

これはブッダの言葉とすごく重なっていて印象に残りました。ブッダはより具体的に、「余裕があるのに親を養わないのは悪」と言っています。

<149ページ 第3部「ヨガ行者 スワミ・サッチダナンダ(東洋)」より>
“ヨガは食べすぎをする人のためのものでもなく、またろくに物も食べず飢え寸前の人のためのものでもない。また、規則的な睡眠をとる人のためのものでも、眠りを絶つ人のためのものでもない。饒舌に流れる人のものでもなければ、完全に沈黙を守る人のものでもない。中道こそヨガである。”

これも「中庸」の精神、仏教そのもの。

<152ページ 第3部「ヨガ行者 スワミ・サッチダナンダ(東洋)」より>
“常に他の人々に奉仕するようにつとめよ。これによってあなた自身が益を受けるのであるから、人を助けてやるのだと考えずに、ただ奉仕するだけだと思え。だれかがあなたに物を乞い、それにこたえてあなたが何か与える場合に、その人を助けてやっているのだと思うべきではない。じつは、逆にその人があなたを助けているのだ。なぜかといえば、あなたが自分の広やかな心を表現する機会を与えてくれたのではないだろうか?(中略)受け取る人が誰もいないとしたら、あなたはどのように与えることができるだろうか。”

「自分の広やかな心を表現する機会」という「表現」に感動すらします。

<166ページ 第3部「ヨガ行者 スワミ・サッチダナンダ(東洋)」より>
“霊的生活においては、あらゆる道が同一の場所に通じる。”

この日記のなかでも、本の紹介を読んでくださっているみなさんには説明不要ですね。

<168ページ 第3部「ヨガ行者 スワミ・サッチダナンダ(東洋)」より>
(師であるシヴァナンダを讃える祝賀会の準備エピソードで)
「ありとあらゆる宗教出身の人々が私のところにきている。私はこの人たちみんなに今度の祝賀会にくるように招待をした。そういった人々がここにきてわれわれの聖師の写真や絵にぶつかると、自分たちがもとからついていた師がのけものにされたような気がするかもしれない。結局のところ、この日は師を偲ぶ日であるし、師の数は非常に多いものだということを考えよう」
そこで信者たちはあらゆる宗教の師たちの画像を集める作業にとりかかった。その結果、彼らの大師の写真を少しばかり掲げたほかに、キリスト、仏陀、モハメッド、スリ・オーロビンド、ラマクリシュナ・パラムハンサ、マハリシなどの画像で壁面がうずめられた。

このエピソード、素敵です。

<192ページ 第3部「ヨガ行者 スワミ・サッチダナンダ(東洋)」より>
(あちこちに呼ばれて繰り返される旅行のエピソードの途中で)
“さらに奉仕するチャンスが来た場合には、心のバランスを失うことなく奉仕せよ。”

「さらに奉仕するチャンス」に恵まれたことに気づけない人には、なんて言ったらいいのー、お師匠。と問いたいフレーズ。

<206ページ 第3部「ヨガ行者 スワミ・サッチダナンダ(東洋)」より>
“どんな生活形態をとろうと、たとえそれが世俗的なものであってもヨガは役に立ちます。ヨガによって普通の状態よりも大きなくつろぎが得られます。より平静な心をもっていれば、人はより健康になります。普通より健康に恵まれていればそれだけ幸せになり、ものごとをやりとげる力が大きくなってきます。”

「うちこに言われても説得力ない」と言われそうなので、自分の言葉で強気な伝道ができないのですが、とにかくやったらいいんですよ、ヨガ(笑)。スターのマドンナさんもやってるヨ。

<276ページ 第4部「ヨガ行者 スワミ・サッチダナンダ(西洋)」より>
ティモシー・リアリー(この本ではレアリーと記載)との問答後半。ティモシー・リアリーって誰?というヤングのみなさんは(って俺もリアルタイムじゃないけどさ)文字リンクのWikiを参考にしてください。

「ティモシー、あなたのやったことは危険なことだったのではないかね? あなたは、今ではもう、それをコントロールすることもできなくなっただろう?」
「たぶん、その通りです。今では、もう完全に私の手にあまるところなのです。そのかわりに、もしLSDを試したいという人があれば、私のところにきて、私と一緒にいるようにいうことにしています。そのことについて、あなたの意見を聞きたいのです」
「さて、私たちはLSDの体験はないのだよ。だが、もしあなたがLSDのアシュラムをつくることを試みたいというのだったら、?よろしい、やってみなさい?と答えるだろう。だが個人的にいえば、それは正しい接近(アプローチ)の方法ではないような気がする。あなたは、さっきLSDは聖者をつくりだす薬だといったね。私の知るかぎりでは、聖者となるには何年も何年も費し、一生の時間がかかるものだ。もし、そうした薬ですぐに聖者をつくりだせると主張するのだったら、なぜもっと小さなものをつくりだそうとしないのかね? 例えば、技師や医者となるためには、わずか数年間の学問しか必要としない。だが、もしおまえが、もっと即座に技師や医者になれる薬を作ることができたら、たいへんな時間とお金が節約されるだろう。それは本当にすばらしいことだよ。たくさんの聖者をつくる前に、何故、技師や医師をつくれることを示そうとしないのかね?」

たぶん当時のティモシー・リアリーといったら、頭良すぎてそうとうイっちゃってたんじゃないかと思うのですが、この問答、何度も読み返してしまいました。「ブーム」というものが持つ力とか、ネガティブな要素も含めて、人々のエネルギーの向かう方向に対するこのサッチダナンダ師の非常に冷静な回答が印象的。

<348ページ 第4部「ヨガ行者 スワミ・サッチダナンダ(西洋)」より>
(1969年のウッドストック・フェスティバルでの開会宣言から抜粋)
現在、米国のいたるところでヨガや宗教の運動に何千、何万もの人々が参加しています。私たちはすべての行動、すべての美術作品にヨガを具現するようにしましょう。聖なる音楽活動を通じて地球上に充満する平和を見出しましょう。?平和のために戦うのだ!?という叫びをよく耳にします。戦いをしてから平和を発見するなんていうことがどうして可能なのか、私にはまったくわかりません。平和のために戦うのではなく、私たちの内部にある平和をまず見出すようにしましょう。

世の「勧善懲悪集団ヒステリー」的な人の心に対するこれまた冷静な意向が、この場で語られているのが面白いなぁ。


サッチダナンダ師は時代が時代、というときにアメリカへ渡った人なのでいろいろな(まあ、「うさんくさい」的な)視点で語っている人がいて、それはそれで、いいと思うんです。そうゆう時代にヨガが求められたということが、なにより興味深いですから。
うちこはこのサッチダナンダ師について予備知識がなかったので、ここに書く前にいろいろ調べていたら、二つ、これからも読み続けたいサイトに出会いましたので紹介しておきます。

世界ぐるぐる・グル巡り
▲とにかく面白いです。テンションも口調も素敵。リンクは、サッチダナンダ師の記事。

空気人的身辺雑記网頁
▲サッチダナンダ師のウッドストックでの開会宣言動画が掲載されている、「アリス・コルトレーンハレ・クリシュナ」にリンクしています。

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