今後の旅行プランの参考に、と思って図書館でなんとなく借りて読んでみました。2002年に放映されたNHKスペシャル「空海の風景」(司馬遼太郎原作)の番組制作スタッフによる歴史紀行で、ところどころに司馬遼太郎氏の原作が引用されています。
一番メモしたかったのは、一番最後にある、映画でいうとエンドロール「取材撮影協力者」のなかのお寺名。
金剛峰寺、東寺、善通寺、青龍寺(中国)、仁和寺、一乗寺、栄福寺、延暦寺、乙訓寺、海岸寺、歓喜院、神野寺、高貴寺、高山寺、高林寺、鯖大師本坊、常喜院(高野山)、神護寺、施福寺、太龍寺、東大寺、成相寺、平等寺、普門院、報恩院、宝亀院、最御崎寺、薬王寺、神野神社
その他にも、いくつかメモした箇所を引用して紹介します。
<98ページ 第三章「奈良」より>
空海が大学を辞めてからの七年間は、資料的には空白の時期だ。その間に空海は、『聾瞽指帰』に描いたような姿で、山林を遊行し、また奈良に戻っては学問に打ち込んだであろう。経典を読み漁り、いくつかの密教経典にも出会っていたはずだ。
『御遺告』の記述から、空海は二十歳のとき、和泉国槙尾山寺で剃髪したといわれている。槙尾山寺は現在の大阪府和泉市にあり、本尊は弥勒菩薩である。
<105ページ 第四章「室戸岬」より>
かれは、(自伝的戯曲『三教指帰』の中で)大学を自主退学したのち修行を積んだ場所としてふたつの地名を特定している。
「阿国」(徳島)の「大瀧の嶽」であり、「土州」(高知)の「室戸の崎」である。
この引用は、ただの旅行プラン用のメモ。多くの場所が紹介されるなか、なんとなくこの二箇所が気になったんです。
<228ページ 第八章「空海と最澄」より>
空海は恵果のもとを訪ねたときにはすでに、サンスクリットを習得しており、鎮護国家思想が誤訳された経典によるものであると知っていたかもしれない。知らなかったにしても、密教の本質的理解において、数多いる恵果の弟子たちの追随すら許さなかった空海が、あくまでも密教宣布のための方便として護国思想があるのだ、ということに気づかないはずがなかったのではないか。後の天皇や貴族との付き合い方をみても。やはりそのように思われる。
こうゆうバランス感覚もまた大きな魅力。
<255ページ 第九章「東寺」より>
空海は、この経典(『理趣釈経』)が男女間の性交の無自覚的な奔放につながることを警戒していた。たんに欲望を肯定するだけではなく、欲望をみずから自在にコントロールできる境地に達するためには、文字面の理解のみでは不可能とし、そのためには厳しい修行を通じて身をもって経典の真意が体得されることが必要だと考えた。密教に全身を投じる覚悟のない者が、その思想を断片的に吸収、引用することは、薬を猛毒に変えるように、きわめて危険なことと自覚していたと思われる。
過去の日記で二度ほどこの件について触れているので(一回目/二回目)、いちおうメモ。
こうゆうの読むと、またあちこち行きたくなっちゃうんだよなぁ。