ここ数ヶ月の間に二人のかたから似たようなことを言われたので、今日は読む本のチョイスについて書きます。
「なんで○○○(←具体的な出版社名)の本も読むのだろうと思って」「ああいう本を読むのが意外だった」と、それぞれ別の人から言われたのですが、そこについて訊きたくなる気持ちがわたしにもわかるな、と思って。
わたしは読む本を出版社で選ぶことはないのですが(優先して見に行く棚やコーナーはあります)、商業主義的なカラーが強い出版社の本も読みます。
大衆的とはどういうことか。これはわたしがよく考えるテーマです。
スマホが普及しきった今の時代は、10年前と違って、一般人が漠然と見栄っ張りになっています。
これくらいのことはできていることにしておこう、わかっていることにしておこうというニーズに対してアプローチをかけていく、そういう本が増えているように感じます。
そんななか、この世を渡っていく際に「この節操のなさ、我慢しない感じって、いまどのくらいの強度・節度で認められているのだろう」というのを確認するのに、商業主義的な出版社の本を見るとわかりやすい。タイトルと帯だけ見たほうがわかりやすいこともあります。
多くの人が悶々としているゾーンへ、慰めの言葉の麻薬を送り込むような本を、うま〜く出してくるなぁと。マーケティングとして、そこを見落とさないのは嗅覚が強いなと感じながら、わたしはそういう本も手に取ります。
冒頭でリンクを貼った、ひなのちゃん(←と呼ぶ世代ですワタクシ)の本を読んだときには、ああ、これは現代版の『放浪記』だと思いました。商業的な意味で、です。
商業主義的な出版社は、わたしにとって「まいばすけっと」のような存在感です。
「まいばすけっと」のロゴって、ウィンドウズのパソコンにデフォルトで入っている「創英角ポップ体」で、そこにコストはかけないという方針、CIが感覚的にわかりやすですよね。
出店した場所(本の場合は、テーマやジャンル、あるいは作家個人の人気)に対して想定する売上以外の目的のためにコストをかける気がないのが明確で、こだわらなさがわかりやすい。
わたしは食材を買う店がいつも決まっていますが、わさびのチューブやおにぎり用のふりかけなど、買い忘れたものを歩いて行ける距離にある「まいばすけっと」でサクッと買うことがあります。
書籍も、これと似た感じなんです。わたしは作家をメーカーとして見ていて、このメーカーはここのチェーンのPBも作ってるんだ、みたいな感覚で捉える。逆の言い方をすると、この出版社はこのメーカーと懇意なのか、というふうに見ます。
昔は出版社がメーカーで書店が小売りみたいな関係性だったと思うのですが、いまはちょっと違うと思っています。
書くものも書き方も信頼している作家に対する気持ちは、「やっぱりグンゼの下着は丈夫だな」と同じ感じで、出版社は違っていても、やっぱりいいわと思うし、ちょっと「ん?」と思ったら思ったで、小売りとの調整で落とし所をここにしたのかなとか、販路拡大をこっちの方向で計画しているのかな、と、あくまでメーカーを信頼して見る。
スーパーの喩えは地域性が出てしまいますが、東京の例で言うと、こんな感じです。
それにしても。
不安に漬け込む商業的な本を肯定することに疑問を抱く、そういう気持ちを持つ人がこのブログを読んでくれているというのは、うれしいことです。
ヨーガ・ヴァーシシュタの184の冒頭に、こんな言葉がありました。
ラーマよ。巧妙で抜け目のない心の知覚や観念を頼りにしてはならない。
インドでは神様や信仰が「大衆的」ですが、日本ではそうではありません。「うまくやる」が信仰されているかのよう。そう、わたしの中にずっとあるテーマは、これなんです。
わたしに冒頭に書いた質問をしてくださった方々のように、「巧妙で抜け目のない心の知覚や観念」に意識的な人が近くにいてくれることは、わたしにとって、とてもありがたいことです。
心の健康を自分でつくっていこうという気概がないと、ああいう質問は出てこないのでね。