うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

しろばんば 井上靖 著

静岡県伊豆半島のお話です。視点をすっかり子供の位置に持って行かれ、天城から豊橋の距離が日本からアメリカくらいに感じられて、旅の様子にドキドキします。

隣県が他国のように感じるスケールで暮らしていた頃の出来事が、感受性の畑に感情の種を蒔く。思い返すとわたしもそうでした。新潟県長岡市から佐渡ヶ島へ行くのが大・大・大冒険だった子供の頃を思い出しました。

 

小学生の頃、夏休みに佐渡の小さな海の一角で、同じクラスになったことのある同級生に会ったことがありました。泳ぎがすごいと校内で評判の水泳部の子で、いまも名前を覚えています。

黒い岩だらけの入り江に十人くらいしか人がいない。ものっすごい田舎。そんな場所で「なんでいまここに、あの子がいるの?」という驚きを処理できなくて、長岡に戻ってからも声をかけることができず、だけどずっと気になっていたことを思い出しました。

わたしがその子に訊きたかったのは「あなたもこの近くに親戚がいるの?」ということ。だけど、それを確認したい思いも訊ねかたも、自分のなかから明確に掘り出せない。驚きが先行して思考と行為のセットを紐付けられない。その頃の感覚が蘇りました。

 

こんなふうに気になったことが雪のように積もって凍結して、たまにそれが溶け出したように思い出されることがあります。それをいま言葉にしようとすると、つまらない脚色に頼ろうとしてしまう。そうしている間に自分が嘘つきのように感じられて、思い出すこともやめてしまいます。

 

この小説『しろばんば』は、まとまらない感情をまとまらないまま書ききっていて、とにかくそこがすばらしい。

知恵がつくと、なんでも名前をつけて安心しようとしまうもの。だけど子供はそのテクニックを知らないから、そのまま感じてそのまま理解しようとする。

純粋って、たぶんこういうこと。

 

 

できちゃった結婚(あるいは授かり婚)」「ブチギレる」「精神疾患」のような、ディテールの説明を省略する言葉がない時代に、子供が周囲のほのかな変化を察知する過程、大人の発言を記憶し観察する様子がつぶさに綴られています。

なかでも、どんなときも自己主張をしない「たね」という祖母の性格の描写が沁みます。こういうのも、観察して知るんだよね・・・。

 

この世の中に悪いことがあれば、それはみんな自分が至らないためだと考えていた。実際に生まれながらにしてそう思い込んでいる風なところがあった。

(前編 六章)

 

祖母は走るつもりらしかったが、あわてているので歩みは平生よりもっとのろかった。少し歩いては立ち停り、その度に大きい吐息をついては、何か口の中でぶつぶつ言った。洪作にも祖母が何を言っているかは勿論判らなかったが、わたしが身替りになりますから、どうぞ娘の七重の身の上に変わったことがありませぬようにと、そんなことを祈っているに違いないと思われた。祖母はいつでも、何か困ったことが起ると、自分が身替りになろうとしていた。

(後編 六章)

主人公の洪作の母は気が強く、問題を次々と攻めの姿勢でクリアしていこうとします。それに対して、祖母は自我がないのではないかと思うくらい、周囲の平和を祈りながら暮らしています。そして自分を育ててくれている義祖母が、これまた強烈。

家族の守りかたに対する大人それぞれの考えかたや発言を受け止めながら、愛着はそれとは別の瞬間に湧くものとして綴られる。

 

 

この人はこうだから好きだとか、こうだから尊敬するとか、「こうだから」が感情や評価とリンクしない。この “リンクしない感情の事実” の描きかたが絶妙。

登場する大人も子供も、強欲な人もそうでない人もみんな魅力的で、途中から読むのを止められませんでした。ずっとこの世界にいたくなる。こんな感覚ははじめてです。