うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

頭の中でプレゼンが止まらない現象について

心のことを書きます。

今日書くことはわたしなりの心の観察表現です。ヨガをしているとこういう分解に耐えられるようになっていく、という一例として参考にしてください。

 

 

似た観察経験のある人がどのくらいいるかわかりませんが、振り返って書きます。

タイトルはいくつも言いようがあるので、どれにするかで迷いました。

ほかにはこんな候補がありました。

 

  • 頭の中で演説が止まらないことについて
  • 頭の中でプレゼンテーションをはじめてしまうことについて
  • 自分の毒が自分に回ること
  • 無限の言い訳

 

これから書くことは、上記の現象についてです。

こういう話は必要でないときには読まなくていいタイプのものと思っているので、垂れ流すつもりはありません。

この先は必要なときに読もうと思うかたは、ブックマークなどして今はここでブラウザを閉じましょう。

 

 

 

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   シャッ(カーテンのイメージで)

 

 

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不安と違うタイプのぐるぐる思考

たとえば旅行中にわからない場所に迷い込んで

どうしよう! となって

ぐるぐる思考することがありますが

ぐるぐる思考というもの自体は、住み慣れた家の中でも起こります。

 

 

「どうしよう!」のときは明確に解決策を探していますが

安全な場所で起こるタイプのものは

頭の中で演説・プレゼンをしています。

そして、その最中は頭の中に

 

 

  わたしがいけないっていうの?!

 

 

という、漠然とした ”意” が存在しています。

そういうことってありませんか。

 

 

強烈な追い出しパワー

この「わたしがいけないっていうの?!」が優勢になると

 

 

 「落ち着いて」とか

 「冷静に」とか

 

 

あるいは

よく書店のタイトルや目次で目にする

 

 

 「自分軸」とか

 「手放す」とか

 「放棄する」とか

 「距離を置く」とか

 「コントロール」とか

 

 

そういうアイデアが、そもそも存在できなくなります。

居場所がゼロになります。

強烈な追い出しパワーがはたらいています。

 

 

さらに

ここで脳に「間 delay」を入れられないと

選択肢は

 

 

 

 「消す」

  いますぐ打ち消したい!

 

 

 

に傾きます。

delete ボタンを押したくなります。

 

 

打ち消せば一時的にはラクになれる

わたしはここで delete ボタンを押すことが

生活リズムに組み込まれて習慣になってしまった

頭が良くておもしろくてやさしい人を

これまで何人か身近で見てきました。

あたりまえですが、限界を超えるまでは問題がなかった

愉快で楽しい人たちです。

 

delete ボタンの種類はいろいろです。

ヨガを何十年もしてきた人でも限界を超えてしまう。

ヨガの経験も知識も届かないケースに最初は失望しましたが、

いまは考えが変わりました。

以下のことを自己観察から知ったからです。

 

 

 

──  今日はここからが本題です。

 

 

わたしが知ったメカニズム

「わたしがいけないっていうの?!」という思考自体はベーシックなものです。

子供を叱るときに親が戸惑うのは、これが基本的な反応であることを知っているからですよね。

なので、この思考自体は基本性能の範囲です。

 

 

「わたし、まずい事した?! 」という思考は道徳と理性につながるもので、

これがなければ世間は大混乱です。

 

 

わたしが自己観察の中で気づいたのは

思考中の文脈が

 

 

 「まずいだろうか?」という自問ではなく

 

 

「わたしがいけないっていうの?!」と

 架空の他者へのプレゼンになっていること

 少なくないことです。

 

 

自問自答の中間に架空の他者が入り込んでいる。

少しずつこの配分と毒素とその回り方が見えるようになりました。

 

 

説得力アップのために突然資料を集めだす

誰にも頼まれていないのに突然脳内プレゼンをはじめて、

同時進行でその主張を補強する添付資料集めもしています。

プレゼン資料の末尾につける「Appendix」(添付資料)です。

 

 

 ちなみにこんな偉い人がこういっています

 

 ちなみにこんな調査結果が出ています

 

 ちなみにあの人がこんな目に遭いました

 

 

 

日常的に添付資料集めのようなことをして

いつの間にか頭の中が

< プレゼン本編が0枚、Appendix10枚 >という

おかしな構成になります。

 

 

 

  なんのためのAppendix

 

 

 

プレゼン本編が1枚でもあれば良いのですが

本編がないので怒りや恨みや攻撃性を分解できない状態のまま燃料投下が続きます。

 

近頃のSNS

この Appendix素材(「ちなみに」のネタ)を

暴力的と言ってもいいくらいばら撒いてくるので

多くの人が脳内プレゼン沼に誘われます。

 

 

シンプルな気晴らしはそこから抜けるきっかけになる

そろそろ結論に近づいていくことにします。

わたしはアンガーマネージメントの話をしているのではありません。

6秒こらえろ、なんて数秒で済む話ではなく、もっと苦しい観察の話をしています。

 

今日は、書店でよく目にする

以下のフレーズがまったく響かない状況向けに書きました。

 

 

 

 「自分軸」

 「手放す」

 「放棄する」

 「距離を置く」

 「コントロール

 

 

 

頭の中のことは、外からは見えません。

外側から見たら落ち着いて見える人も、頭の中は瞬間瞬間、変化の中にあります。

 

 

世間の情報にはこの混乱のきっかけが細かく散りばめられています。

近頃のわたしの場合ですと、ネット広告にある「日本にもこんなに食事をできていない子供がいます」という、こちらを見つめる少女の画像を見たときにも、このメカニズムが数%発動していると感じます。

 

 

 「わたしがいけないっていうの?!

 

 

この感じ、わかります?

 

 

空白に馴れましょう

子どもの頃、わたしは無心で緩衝材のプチプチを押して瞑想をしていました。

大人になると、そういうことに対して無駄なことをしているというジャッジが入って、謙虚じゃなくなっていきます。

空白の埋めかたそのものをジャッジするようになります。

  ↑ 

これが謙虚じゃない状態だということに気づくのに

ずいぶん時間がかかりました。

 

 

大人になってから不意に現れる自分の空白を敵視しないためには、

この仕組みへの慣れが必要です。

空白は光を通すので、記憶の倉庫に格納された見たくないものも照らします。

雑さ、汚れ、傷、穴、黒歴史、うまくいっていない人間関係。

 

 

 

「謙虚」というと

他人に対する態度しか想像しない人が多いと思うのですが

自分の脳内の空白の埋めかたをジャッジすることは

自分自身に対して謙虚ではない。

 

 

この視点に立てないと、心を休ませることができません。