少し前に、Instagram で多数のフォロワーを抱え、企業案件を受けたりInstagramの活用術を教えているかたのお話を伺う機会があった。
わたしは長くIT関連の仕事をしてはいるけれど、SNSマーケティングには関わっていないから、現在のアルゴリズムとそれへの対応・攻略法のようなものを伺って勉強になった。
結論から言うとやはりそれがMeta社(旧Facebook)のものになって年数が経てば、やはりそのようになる。精神的にポジティブな人にはとても良いツールで、もっとどんどんポジティブにならなければならない。
逆に、精神的にネガティブな人にも同様で、もっとどんどんネガティブにならなければならない。
ひとことでいうと、極端だ。
相互監視の行動経済に支えられる仕組みになっているのはSNSの宿命だけど、極端さを加速させることによって成り立つフェーズに入ってからもうここまで爆走しているのかと驚いた。
親しいと感じる人とはより親しく感じ、疎遠と感じる人とはより疎遠に感じるアルゴリズム。
深い親しみを別の方法で耕作・脱穀しておかないと、気がついた時には「リアルで会わない、待ち合わせをしなくてもじゃれ合える、とても親しい友人がわたしにはたくさんいる」という気持ちになるように設計されている。
わたしがいま100歳を超えて、もうそんなに歩けないのであれば、これは新しい幸福の形だろう。
現在のわたしは人と会うと活力が動くことを実感するように心身がデザインされているから、自分を理解した上で行動するようにしている。
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ヨガはものすごく日常の言葉で要約すると「まあリラックスしていきましょうや」という教えだ。
この本質から離れないように気をつけながら、極端さを加速させるSNSを使用する場合は、”リラックスが極端化していく” のが理なのだけど、これがどうにも不自然(笑)。
健康のためなら死ねる! みたいな感じになる。
このように頭を整理するのに、普段まったく接することのない領域の人からお話を伺うのは、目がさめるような機会だった。
「継続は力なりなんです」という趣旨のことをおっしゃっていた。
ほんとうにその通りだと思う。あらゆることの真髄だろう。
「自然」や「秩序」について内省的になれることが、ヨガが与えてくれる学びの視点だ。
そうするとすべてが教材になる。
自分がどんなときに人と親しくなりたいか、ときどき立ち止まって考えてみる。
ひとりで悶々と考えるのではなく、誰かと交流して心がくつろいだ瞬間に、そこへ意識を向けてみる。
わたしはきのう、自分が主催するヨガクラスが終わったあとに、同じスタジオを使用する別の主催者のかたと掃除をしながら立ち話をして、わたしはこういう人と出会える状況がとても幸せだと感じた。
その人がどんな人かは、これからもっと知るかもしれないし、そうなっていかないかもしれないけれど、その時にそう感じた。
この感覚が幸福の源だと思った。
そこを出たあとに、友人の職場(オープンな施設)をちょっとのぞいてみたら、忙しい時間帯で、思いのほか興奮させてしまったようだった。
タイミングをミスってしまったなと思ったけれど、お互いに顔を見て挨拶を交わせた喜びを感じた。うれしかったとあとで連絡があった。
この感覚が幸福の源だと思った。
足でハートマークを届けると喜ばれる。喜ばれるとうれしい。うれしいが加速する。
脚は二本しかない。しかも、わたしの脚は短い。
加速するにも限界があっていいなと思った。