うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ある男  平野啓一郎 著

戸籍ロンダリングを紐解いていく人探しの話で、先が知りたいからどんどん読み進むのだけど、盛り込まれた社会問題の要素が幅広く、ときどき気になるテーマが降ってきます。

「過去も含めてその人を愛せるか」「何度でも愛し直すチューニングを続けるには」という過去と未来への問いが絡みあって、さまざまな角度から葛藤の球を投げてくる。バッティングセンターみたいな小説。

 


主人公は1975年生まれの弁護士で、チャラいとかバブリーと言われるような男性の価値観を強く嫌悪しています。と同時に、こんな音楽を好きと感じる自分は、こんなふうにお酒と付き合う自分は、こんな経験をしてきた自分は……(やっぱりセンスがいい)、という気持ちが充満していて、なかなか複雑な人です。

 


音楽や香りの表現が出てくるところは、なんとなく不安定に見えます。

朝だけに、香水の匂いもまだ固かった。

午前中に女性と合流して美術館へ行くという場面に差し込まれる、この一行の破壊力。

いま身体的に距離が近づいている、そして自分は肌に馴染んでいく匂いの変化を知っている人間だとモノローグせずにいられない主人公。朝の清々しさはどこへ行った。

これを書いちゃう感じがわたしにはバブリーに見えるのだけど、「バブリー」というのは「カワイイ」と同じくらい、ざっくりとした感覚的なもの。

 

 

話も内容もいい。ストーリーはめちゃおもしろい。いいのに、なんなのだ。
なんでそこでそんなことを書いちゃったりするの。

この小説には、わたしが日々偏ったニュースを目にするなかで、じっくり考えてみたかったアジェンダがぎゅっと詰まっています。よくこれだけのものを一つの物語にしてくれたものだと思うほどなのに、なぜそれを入れてしまう。入れてしまうの。

主人公のモノローグがこういう "意識細かい系" だと、売れやすいのかな。わたしには、善人だが健康的ではないのが気になってしまう。

 

 

それはそれとして。

出自や育成環境という個人的な領域を超えた、世代や地域の格差も含めた複雑な状況説明には、読み手にとっては適度な露悪が理解を助けてくれます。これがユーモアの難しいところでもあるのだけど。この本を読んだら、その感じがよくわかりました。

主人公が「超善人」と「バブリー」を同時に纏う人格には少し無理があって、適度な露悪が欠けている。わたしは主人公夫婦の生活ぶりを、やっと終盤で理解できました。

横浜に住む裕福な生活をしている人だとはわかっていたけれど、妻がいつの間にか出張をこなすほどバリバリ働いているところで、さかのぼって過去の二人の生活の場面を読み直して、やっと理解しました。

 

 

どこかで「地方へ移り住んだ依頼者女性とは違い、わたしの妻は仕事を失わずに子育てを実現できている」と主人公がひとこと読者に言ってくれれば、もっとすんなり入ってきたのに。
読者が置いてけぼりを食らわない程度に、主人公を少し嫌味な人にして、都会でパワフルにカリカリしている妻を見下す表現を入れてもよかったんじゃないか。そのほうがリアリティがある。

三勝四敗では納得しない女(妻)に対する思いは、この先どうなるのか。妻のスマホへのメッセージは見ちゃったけど見なかったことにしておく、というのが主人公にとっての三勝四敗主義なのだとしたら、この世代(1975年生まれ)の設定では、いい子ぶりっ子すぎやしないか。

 

 

━━ と、横浜に居る人たちの描きかたには不満プリプリだったのだけど、宮崎の家族はいい。すごくいい。
特に息子と母のやりとりは『永い言い訳』(映画も小説も)で感じたそれと似ていて、"息子の名字が変わりすぎ問題" を母親が意識できていなかったことが、意識しなくていいくらいナチュラル・ボーン男尊女卑な環境が、息子のしんどさによって表現されている。ここは本当にせつなくて、よくこの流れでこんなふうに考えさせてくれたものだと唸る展開でした。
以降、この親子のシーンになるとそれだけで泣くスイッチが搭載され、この親子の章になると「待ってました」と、散歩に連れ出されたい犬のようになっていました。