伊勢神宮への旅は突然決めて日帰りの弾丸で行ったのですが、ここ猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は「みちひらきの大神」とのこと。道を開くで「みちひらき」。
わたしは仕事を変えるタイミングでの参拝だったので、いつになく真面目に由緒の書いてある紙を読みました。そして、猿田彦神社と向かい合うように鎮座している佐瑠女神社(さるめじんじゃ)が大好きになって帰ってきました。
猿田彦神社・佐瑠女神社
ここはいろいろ縁起物のモチーフがあり、楽しい神社です。
いろいろあるなか、いちばん目が釘付けになったのがこちら。
ほんとうに蛇に見える! こういうのってけっこう無理やりなのが多いけど、ここのはほんとうに蛇に見えました。
そしてこちらが「さるめさま」こと、佐瑠女神社。
縁を結ぶ神であり、芸能の祖神であり、鎮魂の元祖であり、美女の代表とのこと。
ものすごいマルチタスクっぷり。期待されてるねぇ。
酒樽のデザインがどれも仰々しくなく、そこが妙に印象に残りました。
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月讀宮(つきよみのみや)
ここは皇大神宮の別宮で、猿田彦神社から1キロくらいのところにあります。
天照大御神の弟神で、月の満ち欠けを教え暦を司る神。スピリチュアルな世界が好きな人に人気のありそうな神様。
そして参拝しに行ったらいかにもそういう感じの人がいて、その人が全身から放つ「その世界に精通しています」という雰囲気に気おくれしました。
その気おくれについてあとで友人に話したら、すごくわかると言われました。(最後にこの続きを書きます)
このように並んでいる宮。順に参拝しました。順番も決まっているそうです。
ここにいる間、わたしはプレッシャーに包まれたままでした。お前のような粗雑な感性の人間が来るところじゃないんだぞと、その場にいる人から揶揄され続けているような。
わたしはこういう気持ちが "畏れ" なのか、ただの薄っぺらい劣等感なのかを観察するようにしています。ここ数年、「心が開かれている」というのはどういうことかを考えているから。
同じ敷地内にちょこんとあったこの神社では、まだ朗らかな気持ちでいました。最初に参拝した場所。
葭原神社(あしはらじんじゃ)。五穀豊穣の神様。
入ってすぐの、右側の少し高台のような場所にありました。
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倭姫宮(やまとひめのみや)
弾丸伊勢の旅、最後はここで参拝をしました。ここは山の中。月讀宮から2キロくらい離れた場所にあります。
友人はこの文字を「やまと」と読めていて感心しました。わたしはずっと頭の中で「”ギシワジンデン” の、ギだったような、ワだったよな…」と検索し続けて答えの出せないままでした。
とてもシーンとしていて、心が落ち着きました。
ひとつまえに行った月讀宮でとても心が揺れて、あとで見たら写真の水平もめちゃくちゃになっていて、ここで撮った写真も水平が取れていませんでした。(写真は角度を修正済みです)
ここを出るころに、心が落ち着いてきました。
倭姫命(やまとひめのみこと)はその仕事ぶりを見ると、姫という文字列からは想像できないがっちり仕事をこなす神様。神宮の祭祀と経営の基礎を確立されたとありました。
はじめての伊勢参詣旅を終えて
急に思い立って行った伊勢でしたが、友人とカーナビを駆使して回り、最後はカフェでケーキ・タイム。
五十鈴川駅前の「ORANGER CAFE wood」というお店に入りました。
ずっと寒い雨のなか外を歩いて、ここで身体をあたためたら気持ちも解けました。なにを話したかは覚えていないのだけど、思い出してにんまりするのは、木を見上げてすごいすごいと言ったり、ここで話をしたときのふんわりとした感覚。
ここで時間を過ごしたあと、月讀宮で感じたことを友人に話すことができました。わたしはすぐに言葉がまとまらず3年以上かかることもあるのだけど、この日はすぐに話すことができました。
わたしはあの場所で、スピリチュアルな世界にとても精通していそうな人を見て気おくれの感情が起こり、同時にそれはわたしの気持ちをその人がキャッチして響きあってそうなるのか(=半分はわたしの力なのか?)と観察してもいました。
こういうことを考えるわたしはメンドクサイ奴と思われるだろうかと思いつつ友人に話してみたら、友人もこのとき同じ人から同じことを感じていたと言われました。
わたしは年々 "存在をできるだけ消す力" も必要と思うことが増えていて、他人の領域を犯さないということにセンシティブであろうとすればするほど、こういう複雑な観察や内省にたどりつきます。
これは、同じ景色を見ている人がいる状態で、その人に向けて言葉を組み立てることがないと掘り下げることができない感情です。そしてその掘り下げは、わたし自身が気持ちを開ける相手と一緒でないと、なかなかうまくできません。思ってはいても、ほとんどのことは言葉として外に出さないから。
誰とでもこういうふうに話ができるように、わたしは日々いろいろなことを気持ちを開く練習につなげるべく奮闘しているのですが、いつも歩みは少しずつで、そしてわりとすぐに元に戻ってしまいます。
仏教の寺院に参拝するときはあまりこういう気持ちが起こらないのですが、なんともいえないアウェイ感のような感情をこの上なく掘り下げることができて、その複雑な感情が深い思い出になっています。
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