うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

モジュッド 説明できない生を生きた人 OSHO(和尚)スーフィーを語る

安定した仕事や必要とされる仕事を得ては、突然それを捨てることを命じられ、従うことを繰り返す人の話。
前半は絵本。後半は絵本の物語の解説。スーフィーの絵本をOSHOが語るという本。

どんな仕事も環境も、いい感じだなという状態がずっと続くわけじゃない。外部環境も自分自身も変わる。いつでもペリッと自分を自分でひっぺがせたらどんなにいいだろう。爪でカリカリ剥がすのに何時間もかけて、めんどくさくなって途中であきらめるような未来は、それはそれで不安だ。ときどき自分の心の窓を開けて換気しながら立ち回り続けるのはしんどいけれど、剥がせなくなるのも怖い。


この本では、恐怖は頭、愛と勇気は胸で起こると説明される。

愛はハートから湧き起こる。信仰もそうだ。疑いは頭のなかで生じる。恐怖もそうだ。頭のなかで生きる人物は臆病者でありつづける。実際には、臆病だからこそ頭のなかに住んでいる。ハートに向かって動くのを恐れている。ハートが自分をどこに連れて行くのかは誰にもわからないからだ。
(50ページ)

わたしはずっと日本の職業教義に「頭から」参加していたのだけど、疑いも恐怖も長く続くものじゃないようで、少しずつハートに戻ってきた。人それぞれ、そういうタイミングがあるのだろう。

 

そういえばわたしは仕事について「なぜ」と考えることはなくなっている。

「なぜ?」は不適切な問いだ。「なぜ」とともに、あなたは哲学に入り込む。宗教は「なぜ?」とはたずねない。「なに?」とすらたずねない。それはひとつのことしかたずねない──「どうやって?」と。科学も「どうやって?」とたずねる。だから科学はテクノロジーになる。そして、宗教は "ヨーガ" "タントラ" "スーフィズム" "禅" になる。これらは内なる世界のテクノロジーだ。
(60ページ)

どうやって暮らしを回そうか。どこで行き詰まる? どこで恐怖に呑まれそう? 狂わずにいるためにどうする? はじまりが「どうやって」だと、恐怖に対しても少し客観的になれる。


わたしには漠然と部屋を借りられなくなることへの不安がずっとあったのだけど、時代は変わっていて、いまは貸主が保証会社を利用してほしいというスタンスのところも増えているという。そんなことも数年前に知った。実家というものがないわたしにはこれがとにかく大きなハードルと感じていたのだけど、そんなに恐れなくてもよかった。

日本も少しずつ、テンプレどおりじゃなくても生きやすくなってきている。これはすばらしいこと。


いまニュースで見る社会のムードはこの絵本の世界と逆に向かっているけれど、それは恐怖に支配されているということでもあるのだろう。あくまでニュースの世界だけれど。

この本のなかにある無神論についての話でも、恐怖について書かれていた。無神論社会の日本は、キャリアと忠誠心がワンセットの信仰を代替的に立ち上げやすい。そういう社会構造の中で頭ではなくハートで生きるのはなかなか大変なことだけど、少しずつ似た考えの人が増えてきている。組織の中にいながらも、ハートで行為できるといいね。

モジュッド

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