うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

関西弁がスピリチュアルに聞こえる話


読書会をすると他人の言葉や文章にたいへん刺激を受けるのですが、人によって文章の捉えかたもアウトプットもさまざま。それは身体と文体、まるでアーサナを見るのと同じ感覚です。5月からさまざまなバリエーションの関西弁を目と耳で浴びてきました。(今日の写真は神戸空港
関西弁は関東甲信越の言語感覚でみると、独特の客観クッションがひとつ挟まれているように見えて、それはときにスピリチュアルといわれるものと似ています。
これは関西弁が飛び交うなかでわたしが「ぽつーん」といることで感じられることで、まえに「関西弁での心理分解が妙にしっくりきた」という生ブログの様子を書いたことがあるのですが、今回は宿題のメールを読んでいる時点でありました。



 出世できる人とできない人がいてる  結婚できる人とできない人がいてる



この言葉づかい。
関西弁ネイティブの人には、へ? と思われるかもしれませんが、わたしが同じこと書くと



 出世できる人とできない人がいる  結婚できる人とできない人がいる



となります。なので、
「いる」と「いる」の間になにかを感じているわけですよね、あなたたちは。と考えたときに、それは巷で人々がスピリチュアルといっているものと似ているものではないかと思えてくるのです。
以前は「ちょっと他人ごとっぽい言いかただな」と思っていました。でもそのあとに「これは、なるようにしかならない感じや神が運用する法則のようなものを指しているのではないか」と思うようになりました。霊性、というのかな…。スピリチュアリティ
いまよく使われる他人からの攻撃に対するリスクヘッジとしての「させていただく」ではなく、沖正弘先生が頻繁に使う「させていただく」に近いものを感じる。「させて」よりも「いただく」のほうにウエイトがあるように見えてきました。


この言葉を使った人は、大阪のかた。この感覚について話している途中で「わたしの日本語おかしいですかー?」と不安そうにされていたのだけど、そうではなくて、そのとき不安になっているのはわたしのほうだったのです。わたしがふだん使っている日本語よりも、この場でみなさんが使っている日本語のほうが、「意志」のありかを理解できているじゃないか。と感じていたから。標準語って、雑かも…。と思ったのです。
「いてる」の「て」を削ぎ落としてしまうのは、日本の首相が五輪招致のプレゼンで使った「under control」という英語を聞いたときに「言葉選びが雑では?」と思ったのと少し似ています。