うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

身体の倦怠感に引き込まれすぎないように目標設定をする、40歳からの生活

「ヨーガはこころと身体は別々ではないと考えるもの」これは、インドでの授業のノートを開くと、最初のページにメモしてあるフレーズ。これを日常レベルでどう捉えるか。いま感じていることを書きます。
30代前半までは身体エネルギーが豊富で、社会生活でメンタルがズタボロになっても身体が心を引っ張り上げてくれるような感じでした。が、40代でこの関係がゆっくり反転していく。ここ一年ほど、なるほどなぁと思いながら日々を過ごしています。ちょうど40代も半ばにさしかかり、身体の倦怠感に引き込まれることを察知して考える機会が増えています。


先日タイタンシネマライブというお笑いライブへ行ったら、高名なヨーギーの片岡鶴太郎さんが出演されていて「ヨガによって体調の変化を察知するのは早くなったけれども、それはそれ。インフルエンザのようなウイルスにはかなわない」というお話をされていました(4か月前の出演予定が、インフルエンザで今回になったのだそう)。
このお話を聴きながら、わたしが更年期の予兆的倦怠感を感じているのもそうかな…と少し思いました。まだ早いとも言われたりするけれど、数年前から変化は感じています。メンタル面ではもっと早く、30代終盤から感じていました。



 便宜的な目標設定に対して、冷めてゆく



ここ2年ほど、自分よりも少し年下の世代の女性が「40歳になるんですー。(なったんですー)ざわざわ」というモードで声をかけてくださり、いろいろなかたと食事をする機会が続いたのですが、ひとりのかたに「40歳からは、コツコツやるプラクティカルな目標設定があったほうがいいよ」という話をしました。わたしは38歳のときに体力面で「ざわざわ」が早く来て、40歳は新しいことに夢中になり始めたころで、しゅっと過ぎてしまったのでした。いまも同じことを続けています。


先に書いた「便宜的な目標設定」というのは、わたしの場合、数ヶ月に一度目標を定めて評価を重ねていく組織にいたため、自分が評価をする側の立場を経験するようになってゆくにつれて、便宜性のようなものとどう折り合っていくか、そこが精神の安定に影響するようになったという経緯がありました。



・・・で、どうしたか。
わたしの場合、私生活でも目標設定をするようにしました。ほんとうのほんとうの個人目標。そしてそれに対して、以下のスタンスで臨みました。(というか、臨みつづけています)



 「できるようになったこと」を数えられるように、いくつか種をまいておく。
  →それを、日常に組み込み、育てることを楽しむ。
  →育つもの・そうでないものを好き嫌いとは切り分けて観察する。
  ⇒他人の名前を借りずにその成果を示すことができるよう、都度自己認識を固めていく。



実践しながら繰り返して形成したこのステップを文章化できるようになったのはここ最近のことで、この形ができあがるのに4年くらいかかりました。なのでこれを読んだ30代のかたは、4年ぶん得をしたと思ってください。


最後の「他人の名前を借りずにその成果を示すことができるよう、都度自己認識を固めていく」のところはわかりにくいと思うのですが、他人がこしらえてくれたブランド力にぶら下がって成就していくような権威の力が細くなっていくことを踏まえ、ブランド依存対策も考えておいた方がいいという理由からです。
伝統はもちろんすばらしいものだけど、権威が薄れていくのも自然現象であるということを、心の準備として持っておくほうがよい。このように考えるようになったきっかけは具体的にいくつかあるのですが、これは固有名詞なしに語ることができない性質の話なのでここに書くことができません。



・・・で。
さあさあさあ。さてさてさて。で、ですよ。ここからは、小さなわたしからの、小さなアドバイス
まずは「できるようになりたいこと」を覚えておくことをしましょう。わたしはこれをしておかなかったことを後悔しています。日々思いつくのに、流してしまってきた宝がたくさんあったと思うのです。
わたしは個人目標を明かさない主義ですが(理由はこちら)、たとえば「自分でシャツを作れるようになりたい」という目標があるとします。すると服を見るときの目が、シャツだけは違ってくる。これだけで、主体性を含んだポジティブさが小さく発動し続けます。


わたしは、身体の倦怠感に引き込まれるメンタルを自然現象と捉えてあきらめています。現象を超えることがヨガだとは思っていない、といったほうが伝わるでしょうか。肉体が死んでも長く腐らなかった伝説のヨーギーの話も神秘的なお話も、はぁそうですかというか、本当でも嘘でも興味がないんですよね…。
それよりも、身体の高揚感や倦怠感に日々の記憶を紐づけていくことをコントロールするのは自分であると思えるところに希望を見ます。そこを学ぶことの厳しさを感じながら、紐づけかたがつまらない思考や他責の思考・引き算の思考にならないように工夫する。これが、中年以降はますますだいじになってくるなぁと、いまはそんなことを思います。