うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

理性のゆらぎ 青山圭秀 著

20年以上前のベストセラー本です。
超エリートなのにチャーミングでハートフルな著者のキャラクターがすばらしく、エリートのほうに寄せてしまえば「知性のゆらぎ」「認識のゆらぎ」になりそうなところが、チャーミングでハートフルゆえに「理性のゆらぎ」というタイトルたりえる。いまの感覚で読んでも普通におもしろい。


あえてネット色満載のフレーズを使うと「ドキドキわくわく☆スピリチュアル・インド探訪記 ~東大の博士ですが、何か?~」ともいえそうな軽いトーンが随所にあって、楽しみながら読まされてしまう。そんなベースの上に、サイババを日本の書籍ではじめて紹介したとなれば、そりゃベストセラーにもなる。ならないわけがない。

この出版社(三五館)すごいな…。スピリチュアルにいうとこれも奇跡なのでしょう。編集者の腕がすばらしかったのじゃないかとも思います。こんな本が書店にあったらわくわくするし、「あれ読んだ?」ってめちゃくちゃ話題になりますよね。


わたしは続編の「アガスティアの葉」を先に読んでいます。その本は途中から婚活占い旅行みたいになってちょっと驚いたのでしが、第一作目のこの本を読むと、著者の少年時代からの関心事や経験、成功の価値観が明確に語られていて、もともと結婚にこだわりがあった人だということがわかります。しかも第一作目の時点でモテてる。しかも相手は美人女優。いいね!楽しそう。なんかバブルも感じる。


この本がブームになった1993年は地下鉄サリン事件の2年前で、わたしのモノサシで時代感を振り返るとまだ安室ちゃんはSUPER MONKEYSと一緒で、なにこの女の子、この声量このパワフルな感じ…となっていた頃。時代的にいろいろ湧いてたあの頃に、少し年上のお兄さんお姉さんたちはこういう本にハマていたのですね。吉本ばななの「アムリタ」も1995年だもんな…。いろんなことに合点がいきました。わたしにとって当時「スピリチュアル」といえば吉本ばなな作品だったので。


そんな回想はさておき、インド人とのやりとりと、その最中の自問自答ツッコミがおもしろい。わたしの一番好きなやりとりは、ここ。自分の仕事の腕を信じるから結婚する気はないというアーユルヴェーダ若い女医・ウシャと話す場面。

 ウシャは八人兄弟の末娘で、その笑顔にはまだあどけなさが残っていた。両親も兄弟も、彼女を溺愛して育ててきたであろうことは容易に想像できた。
「君の家族はどうなんだ? ご両親は、君が幸せな結婚をすることを夢見ておられるだろう?」
 例外はあろうが、一般に女性の幸福はよい結婚にある、というのは私の持論である。誤解されやすいので大っぴらにはいわないが、そんなことは昔も今も変わらない当たり前のことだと、私は内心思っている(もちろん、男性の幸福もまた、よい結婚にある!)。
「確かに家族はみんな、私がいい結婚をすることを第一に願ってるのよね。それでまた、たくさんの男を紹介されたわ」
 ウシャはまだニニ歳だった。しかし、インドの見合いの進め方はまた、日本など及びもつかない気合いがある。
<当方、グジャラート州のニ五歳の男性。大学卒、エンジニア。年収三万六○○○ルピー、将来性あり。中肉中背、美形。関心のある方は、ホロスコープ送れ>
 などという広告が、新聞にズラリと並ぶ国なのである。
「それで、それはみんな断ったのか」
「ウン」
 愛くるしい微笑みを浮かべてうなずく彼女が、小悪魔のようにも見えた。
「あなたは、占星学を信じるの?」
「え、ぼくが。そ、そりゃあ信じるさ。もしこういうものに何の根拠もないとしたら、君たちの祖先が今まで営々と築き上げて来たこの一大文化は、一体何だったんだ?」
「でも私は、そういう状況証拠では、ものごとを信じないの」
 あどけない顔をして、なかなか論理的なことをいうやつだと、おじさんは少々たじろいだ。何しろおじさんには、日本という物質社会にどっぷり浸って生きてきたという弱みがある。しかしおじさんは、彼女よりも多少人生経験を積んでいたので、世の中には理屈はどうであれ、事実あるとしかいえないものがたくさんあることを知っていた。
(第十章 幽玄の星の科学 より)

おもしろおじさん!

 


そして、この本を読みながら思い出すことがありました。十数年前にインド人講師のヨガ学校に来る人には一定の割合で「特別な何かを持った人に近づくこと」を渇望する人がいて、この著者と同世代の人を中心に、そんな雰囲気があったような…と思うのです。著者はもともとヨーガも探求されていました。

 ヨーガについては、私も小学生の頃から聞き及んではいた。当時の人気番組「万国びっくりショー」に、インドのヨガ行者が登場して、難しい体操の数々を披露したのを覚えていたのである。わたしの記憶では、このヨーギは驚くべき柔軟性で人々を驚かした後、「ヨーガは、奇怪な体操をするのが目的ではなく、それによって心と体を高めるためのものだ」といったことをさかんにいおうとしていたのだが、時間切れになってしまった。そのせいかどうか、ヨーガ=アクロバティカルな体操、といったイメージが、その後長く日本人の間に広まったようである。
 ヨーガとはそもそも、結びつける、統合する、といった意味の言葉である。しかし、何と何を結びつけるのか、何と何を統合するのか、このときの私には、まだ何も分からなかった。
(序章 出会い、旅立ち より)

 どこの世界でもそうであるように、この世界にも、口先だけの食わせ者はいる。しかし、私の出会った人たちの多くは、立派な先生方だった。彼らはそれぞれに、ヨーガや瞑想の専門家だったり、自分なりの哲学や健康法を確立していた。その中には、(クリヤ・ヨガというわれる高度な体系を、アメリカに広めた)パラマハンサ・ヨガナンダの義理の甥にあたるヨーガの先生や、ヒマラヤ聖者の側近く十何年も仕えたという先生もいた。
 それらの体操や瞑想は、私にとって、今や欠かせない日々の楽しみとなっている。そして、彼らに対する私の感謝と尊敬の念は、昔も今も変わらない。しかし、あつかましくも、私が心の奥底で求め続けていたのは、真実のすべてであり、その体現者だった。当たり前かも知れないが、そういうものには簡単にはめぐり会わなかった。
 私が、ついふらふら「科学」に走ってしまったのも、結局はそこに原因があったように思う。
(第四章 サイババとの邂逅 より)

この本の先生のところへも行かれたみたい。

 


サイババの件を抜きにしてもすでにおもしろいのですが、サイババに関する記述では以下の部分が気になりました。

 こうして直接サイババの姿に接することをダルシャンということはすでに書いた。ところで、このダルシャンというのは、もともと「神の姿を直接拝む」という意味である。生きている人間が神だといわれても、私にはピンと来なかった。だがこのとき、私はこのことの意味を、感覚的に感じたような気がしていた。
 また逆に、私はこのとき初めて、サイババを "実在の人物" と感じることができたともいえる。話を聞けば聞くほど、そのあまりに「現実離れした実話」に、私はサイババをまるで伝説上の人物であるかのように感じていたのである。
 しかしそこにいたのは、写真やビデオで見たのと同じオレンジのローブをまとい、独特の仕草、独特の雰囲気で、ゆっくり、ゆっくりと人々の間を回って歩く、生身のサイババだった。
(第三章 化身の伝説 より)

 あることを知っているというか信じているというかは、普通は、そのことが事実であるかどうかに大いに依存している。事実でないことを知っているといっても、普通、それは知 っているうちには入らない。
 しかし、以上、さまざまな例を挙げてきたように、ある知識が真実かどうか、ものごとが事実かどうかを判定する、真に客観的な基準は存在しないのである。だとすれば、知識と信仰との違いは、もっぱらその命題と自分との主観的な "距離" によるものといわざるを得ない。
(第七章 理性の不安 より)

「主観的な "距離"」というのはすごくうまい言葉選びだなと感じます。「引き寄せ」なんて言葉はまさにそのまんまだし。

 

それにしても、やることを決めてもらいたい、断言してもらいたいという心理状態ってどう捉えたらいいのだろう。この本は断言してもらいたい気持ちを極限まで主体的に追っていて、その逡巡がなんともリアル。
当時の著者にどのくらい「サイババと話せた。認められた」という気持ちがあったのかわからないけれど、その山っ気はとても30代らしい炎で、その時にしか出せないもの。すごく輝いてる。

リアルタイムで読まなくてよかった…。若いときに読んだら影響されちゃいそうだったから。

理性のゆらぎ (幻冬舎文庫)

理性のゆらぎ (幻冬舎文庫)