うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

しんどいにきまっとるやんね(「すべて真夜中の恋人たち」読書会より)


昨年の12月に関西ではじめて、現代小説を題材にした読書会を開催しました。
わたしはヨガとは全く関係のないOL仲間と太宰治作品で読書会をしたり、ほかにもさまざまな形で読んだ本の話をしますが、ヨガに出てくる概念の脳ミソで進行する読書会をここ数年、毎年何度か開催しています。


基本的に夏目漱石の作品は読書会の題材にしやすいので何度も開催してきたのですが、海外小説や現代小説でもできそうだなと思うものがたまにあります。海外小説の場合はキリスト教と紐付くものが多くなるのでそこをいったん解体して抽象化しても同じようにいけそうか、判断がむずかしいのですが…。
そんなこんなで現代小説・初開催の物語としては川上未映子さんの「すべて真夜中の恋人たち」を選びました。半数近くが読書会初参加のかたでしたが、わたしが裏コンセプトとして構成時に意識している "日常のなかで保留にしては流していた微細な感情の棚卸し" という感覚を味わっていただけたようでした。この小説は会話の中に問答が多いのですが、設定はごくごく普通に生活をしている女性たち。そこがすごくよいのです。


関西の読書会でわたしがいくつか事前に投げかけた問いの一つに対し、仕事への向き合い方や責任感のありかたとして「しんどいにきまっとるやんね」という感情を拾い出してくれた人がいて、今日はそのことについて書きます。
この小説の主人公・冬子さんは、文章の間違いを探す校閲の仕事をしています。その仕事について、主人公の冬子さんに「間違いだけを探しつづけるのはつらくないか」という問いかけをする人がいます。こんなふうに。

その、少々つらくはありませんか。その時点では、あるのかないのかわからない間違いを、かならずあると定義して、その、追求するというのは

なんだか、あらたまってそういう言いかたをすると哲学的な問いになるじゃないの…。というような会話。
同じ人が、この問いを以下のようにクロージングします。

じっさいにあるのかないのかわからないものを、いやそれはあるんだと言って目指すといういうことじたいはよくある姿勢だと思うのですが、……それがある種の真理や正解といったものじゃなく、間違いや誤りであることがつらいというか、……そうですね、興味深く思えただけです

ちょっと、しっとりとしたトーンです。これがすごく恋愛の初期っぽくて、よいのです。
慣れたキャッチボールをする関係になるとこんな話はしないぞというような部分も含めて引き込まれていく小説なのですが、この会話が印象に残ったという人がいらっしゃったので、どうしてこの対話が気になったのかおたずねしてみると…



 しんどいにきまっとるやんね、と思って。



ばっさり(笑)。でもよくよく聞いてみると、そのかた(仮にCさんとします)のおっしゃることも、別の角度で沁みます。
職種は違えど、Cさんも会社の中でひとつの役割を担っていて、いつも信用している業者さんに頼んだ仕事をチェックすることがあり「そら信用してるけども、でも人間の作業だし間違いもあるだろうということで、まあチェックするわけですよね。そこはしんどいにきまっとるやんね」と。


── んだ。
こういうことは、「少々つらくはありませんか」と、差し向かいでゆっくりとそんなふうに問われてみればそうだけれども、そこを深刻に考えないのも仕事のうち。でも、あらためて考えてみるとそこには確かに、少々のつらさがあるよと。他人に話すほどのことではないけれど、初期設定として受け入れている "疑い" の仕組み。
それを義務のひとつとしてやりますよという役割を、自分で都度都度判断しているのじゃわい、と。



この小説は、共同幻想が成り立っている間にしか捉えられないような問い=恋の時間、ということが感じられる、そんなしかけがいっぱいです。そういう恋の物語なのだけど、その思いは恋愛に限った場面だけじゃなくて、仕事仲間であったり、ほかにも共同幻想が成り立っている瞬間すべてに通じるものがある。
壊れる共同幻想も残る想いもすべてに自身が掴まえては手放したもので、そのくりかえしなのだと、そんなふうに日々の執着への振り返る。ひとりで考え込むよりも、たまにはこうして心のカバンの中身を広げて他人と眺めあってみるのも楽しいものです。あー! その感情、わたしも昔よく使ってた頃あったー。なんてね。