うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

現代訳論語 下村湖人 著


いつか読もうと思っていた論語。いくつか「あ、これも論語のなかにあったものなのか」と思う言葉があった。こうしてある程度のまとまりで読んでみると、文字列を読んで反応した感情にひっぱられてはいけないなと思う瞬間が多い。おっとあぶなかった…、という思考がたくさん発動する。
これ今だったら大炎上するフレーズじゃないかと思うものもあるし、ここで非難されている相手は今だったら障害のある人として扱われる人なのではないか…と思うものもある。フェミニズムの人の毛穴が全開しそうな言葉や、中年ニートの人が立ち直れなくなりそうな言葉もある。(よく読めば、そうでもないのだけど)
それでも論語にある「善」や「徳」や「義」の定義はしっかりわたしにインプットされている。それは宇宙人にさらわれてチップを埋め込まれたというような突飛なものではなく、父母もその父母も、さらにその父母からも続いていたであろう、「人間社会の人間として」という価値観。そこに神秘性はまったくない。「徳」の定義はあくまで現生。もしくは死後語られる「この社会で生きていた頃の自分」。


こんなに複雑な思いがたくさん芽生えて感想をまとめにくい本はめったにありません。
国語の授業で読んだ「子曰く」で始まるものは孔子の言葉なのだけど、もちろん解釈は割れるもの。感情を煽られたときが自分を知る瞬間。
その「知る自分」は、子どもの頃に受けた道徳教育や家庭や社会にいる自分よりも年配の大人の振る舞いを観察したうえでの自分。過去をさかのぼって、自分のなかに深く潜りこむきっかけになります。


わたしは4年くらい前から、日本人でありながらヨーガを学び続けている自分の状況を「儒教ファンデーションの上にインド思想でメイクアップをしようとしている」と認識しています。
それは年々色濃くなっていったものですが、決定的にそう感じたのはきっかけは、インドで受けた哲学の授業でした。ディスカッション形式でさまざまな国の人たちの宗教観のトピックについて話す時間に、そう感じました。
わたしの頭の中で起こっていたことは、心に施すインド・テイストのメイクが乗る乗らないとか合う合わないとか、そういうことを意識するときに、おのずとファンデーションの影響を避けられなくなる、そういう葛藤。授業のメンバーにはヨーロッパの人が多く、彼ら彼女らがあたりまえのように聖書を脳内で引いているのがわかる。そしてそのとき自分が引いている辞書は、なにか。そう思う瞬間がたくさんありました。仏教の辞書を引いているかと思いきや、そうではない瞬間がたくさんありました。
仏教はインドのものだから根底に輪廻思想があり、その点でヨーガとはわかりやすい親和性があるのだけど、自分の中の価値観にそうではないものもゴロリとある。根っこにあるのが神に帰依するタイプのものでないという感覚。
そんな思いを何年も発酵させてからの「論語」でした。


読んでみると、書いてあることはなんだか他人の性格を論じてばかりで、妙に下世話な気持ちが発動する居心地の悪さがあったりもするのですが、一方で「門人に対して姿をそのまま見せる」というスタンスには、なるほどと思うところもあります。
いまで言ったらモラハラパワハラと言われて炎上するやつだこれ…と思うような振る舞いもありつつ、自分は有名になれそうにないなぁとボヤきもする。ものすごく人間くさい。
「先生」として棚上げしきった前提にしないようにしているかのような、そいういうところにおもしろさがある。注釈に「孔子の門人たちの中にも就職目あての弟子入りが多かつたらしい。」ともあったのですが、それぞれに対して返答する内容が違っているのは考えて行動する主体を個人に置いておくための工夫にも見えたりして、いろんな角度で読める。
弟子に対する対応はちょっとマインド・コントロールしすぎではとも思ったりするのだけど、根本的にこう考えているのであろうと思う以下のような言葉はすごく沁みる。

二八(四〇七)

 先師がいわれた。――
「人が道を大きくするのであって、道が人を大きくするのではない。」


(訳者解説)人なくして何の道ぞ、というのである。人をはなれて超越的に道というものがあり、その力が人を左右すると考えるのは、思考の遊戯であり、抽象概念に過ぎない。道が成るも成らぬも、すべては人の力だ、というのである。

そう。沁みる。
沁みるというのは、おもしろい感覚で、こんな言葉もある。

一一(一三〇)

 先師が子夏にいわれた。――
「君子の儒になるのだ。小人の儒になるのではないぞ。」


(訳者解説)君子の儒、小人の儒は強いて訳さないで、このまま日本語として通用させる方が面白い。儒は濡(水にひたるの意)を人扁にしたもので、先聖の道を学んで、それに身をひたす人を意味する。「君子の儒」は真実に道を求めて学問をする人、「小人の儒」は、立身出世を求め、利害の打算に終始し、徒らに物知りになるような学問をする人。いつの時代にも小人の儒が多い。

儒教の儒の意味が沁みるというのは、言葉の感覚にすでに練りこまれているのだろうか。


これはとても大切なことなのだけど、最初の説明に、こうあります。

論語」を読むにあたってわれわれの忘れてならないことは、それが「精神の書」であり、「道徳の書」であると共に「政治の書」であるということである。この点で、政治とはかかわりなく、或はむしろ政治否定の立場に立って、人間の幸福乃至社会秩序の維持を、純粋に個々の人間の魂に求めようとしたキリスト教や仏教の諸経典とは、いちじるしく趣を異にしているのである。

自分は悪くないと思いたい気持ちを肯定してくれる自己啓発書のようには、すいすい読み進めさせてはもらえない論語
年配のかたの価値観・考えを学ぶのにも、すごく参考になります。


青空文庫で読めます

現代訳論語
現代訳論語
posted with amazlet at 17.06.04
(2016-06-28)