ここで本の感想を書いていると、たまに「この前ブログに書いてあった、あの感じがっ!」と、なにかの拍子に誰かが共感ポイントを話してくれたりします。
このあいだ「蹴りたい背中」の感想を書いたら、そのなかにあった部分が気になった人からこんなコメントをいただきました。
あの時代特有の「ともだち道具観」って強烈ですよね…ヒリヒリ。
高校時代、ともだちと彼氏との旅行に名義貸しされてたことを思い出しました。
ともだち道具観て!
そしてまた、得意のひとり相撲。
このフレーズをくれた人は高校時代の「名義貸し」のことを例にあげていましたが、わたしの場合はいまだに「ちょっと作って」とか「ちょっと書いて」と、手を動かすことを頼まれがちです。「ちょっと作って」は自分が母親にお願いすることでもあるので、モヤモヤすると同時に後ろめたさや罪悪感もわきます。
「ちょっと書いて」のときは、イコール「宣伝して」のこともあり、これはいつか本気で爆発してしまうことがわかっているので、わたしは媒体のページビューを試算して単価と制作コストを分けて見積もりを出す仕事をしてきたの…ということを話題に織り込みなんとかゴニョゴニョするのだけど、そんなやりかたで「察してくれ」というのは無理な話で、結局その人のことは避けることになってしまう。
でも「ちょっと書いて」という人は、悪いことを書かれることを想像していなくて、わたしのことを性善説で信用してくれているのだあなぁとも思う。
ん? ・・・信用?
あの人、使える
これも、ともだち道具観。
使えると思ってもらえることは、うれしいか。「うん」といえば奴隷だ。でも「使える」と思われること自体は、うれしい。すごく、うれしいのだよね…。
そう、この「うれしさ」が、悩みの根っこにある。
超過労働のことが問題になっていたりするけど、わたしはそうなる状況について自分にも経験がありつつ、心がギュウとなる背景には、怒りよりも少しさびしさへの共感が多く含まれる。複雑な共感。
「はたらいてばかりでさびしい」ということもありつつ、「さびしいと、はたらいてしまう」ということもあったから。
こういう種類のさびしみは、ともだち道具観に直面したときに怒れない感じとよく似ているのだけど、大人になって実際怒ってみても、いいことなかったんだよな…。怒らなかったらもっとよくない方向へ行ってたかもしれないから、わからないのだけど。
「壇蜜日記3」に、こんな記述がある。
怒りをあらわにすることは大切か。今のところは「否」だと思う。私の場合だが、怒りをあらわにしたところで相手にされないか、その行為がいかにみっともない事かを説き伏せられて「怒るお前が悪い論」を突きつけられるか、報復として目先の楽しみを奪われるか……そういった結果しか体験してこなかったからだ。
(2015/10/19 の日記より)
これ、実際そうであると思う。壇蜜さんは「今のところ」と書いているから、変わるものかもしれないと思っているのかな。
「しんどいから思考停止させてたけど、そのとき感情はあったよ」というように「一時停止」ボタンを上手に使いたいのだけど、覚えておくのがしんどいから「ええい消去」ってしちゃう。でも、断片だけ残っちゃうんですよね。デフラグするように瞑想しよう。