うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

今日もていねいに。 松浦弥太郎 著


たまに自分を戒めるために読みたくなるエッセイ。「松浦弥太郎の仕事術」「あなたにありがとう。」「松浦弥太郎の新しいお金術」に続いての4冊目。
このエッセイはほかの本に較べてやや説教くささを感じました。これは特定の誰かに言いたかったことなんだろうな、と思うフレーズが散らばっている。これほど言葉をマイルドにラッピングできる人でも、こういう思いは漏れてしまうものかと思いつつ、でもそれすらも「苦労されているなぁ」という背景が見えるような、根拠の後ろ盾に見える。ていねいな心がけを書こうと思ったら、ていねいでない事例を出さないと書けないところもあるから、文章の宿命みたいなものかな。これを避けるためにポエムにされても読まないし。
「無になる練習」では、ご自身で開発したヨガニードラのようなものが紹介されていました。これはなかなかにおもしろく、しかも重要なところをしっかり抑えられている。10ページに1回は激しくうなずくフレーズが出てくるので、スイスイ読みすすむ。
今回はこんなところでうなずきました。

「あんなことをやりたい」と、いろいろ話す人はいますが、一向に手がけている気配がないと評論家になってしまいます。思って、考えて、人に喋り、何も始めないうちに結論を出してしまうようになるのです。


(中略)


 どうやら人には、できなかったことを「なかったこと」にしてしまう心の作用があるようで、へたをすると、できなかったことを忘れる努力をしかねません。
(「実行する実行家」より)

最後の指摘が鋭い。わたしの周囲にもいろいろな人がいて、「会社をやめる」と言って1ヵ月後に起業して法人登記を済ませていた人もいれば、何年も「こんなことをしようと思っている」という話やその業界の暗い話を続けている人もいる。聞く人にとっては、この人は100ぶんの100%の人、この人は100ぶんの0パーセントの人、という事実が明確になる。やっぱり黙ってやるのがすてき。


 人は人とかかわりあって生きていきますが、恋人だろうと家族だろうと、100パーセントぴったり、一つになってはいないものです。何を考えるかで行動も生き方も決まりますが、思考というのは、誰かと一緒にはできません。
 感じる、思う、考える、選ぶ、決める──人生の根っことなるこうしたところは、一人でしかできない。この事実を、いさぎよく認めなければならないと思うのです。
(「基本穂条件は孤独」より)

これも、うなずくしかない。



気晴らしはたまにいただくお菓子のようなもので、毎日の食事にはなりません。
(「したいこと・やるべきこと」より)

生きることは苦しいこと、というベースがあるんですよね。



 僕にとって清潔感を保つとは「ここが崩れると自信を失う」という境界線。どれほど賢くても能力があっても、馴れ合いに塗り込められて清潔感が姿を隠したら台無しになってしまう──そんな気がしてならないのです。
(「清潔なたたずまい」より)

「ここが崩れると信頼を失う」でもあるかも。



静かなしぐさをしているかどうかを、自己チェックのものさしにしましょう。荒れているようであれば、自分で自分をやさしく引き戻してあげましょう。
(「静かなしぐさ」より)

引き戻すというのは、ヨガをするようになってからわかったかも。自分の身体に自分でタコ糸を引いてる感じ。風にあおられちゃダメなんだよなぁ。


エレガントに、でもアクティブに。ただアクティブなだけでもいられない年齢なので、わたしにはこういう説教が大変重要です。


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