うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

シュリ・アーナンダマイー・マーの生涯と教え アレクサンダー・リプスキ 著


パラマハンサ・ヨガナンダ著「あるヨギの自叙伝」に登場するあの人物の本が、やっと日本語で読めるようになりました。
インドでは有名な人なのでアシュラムも各地にあり、わたしがよく行っていた本屋さんの人は「マーナンダマイー」と呼んでいました。
この本は、アーナンダマイー・マーのアシュラムで日々を送ったドイツ生まれの宗教学教授・アレクサンダー・リプスキ氏による著作を翻訳したものです。73ページに「これを書いている時点で、アーナンダマイー・マーは77歳である」とあるので、もとの本は1973年に執筆されています。内容は「この聖者は、こんな生い立ちでこんな生活をし、こんなことを語っていた」という記録。信者でありつつ必要な客観性も持ち合わせた、よいバランスで書かれています。


客観性はあるのですが、途中に頻繁に挟まれる「このようなことに対し、このように誤解するだろうけれども」というエクスキューズがおもしろいです。読みながら「あたしゃそんなふうには思わないから、まぁ安心して語っておくれよ」と、脳内ちびまる子が何度も発動しました。たとえばこんなところで。

概して、生と死、喜びと悲しみから超然とし、平静な心を持つアーナンダマイー・マーが、感情を露にしたこの光景を、人はどう解釈すべきだろうか? ヒンドゥ哲学によれば、神は顕現の中にも、顕現を超えたところにも存在する。従って、神は二元性を超えていると同時に、二元性を持って現れる。このことを心に留めるならば、おそらく彼女のこの振舞いは、より困惑の少ないものに見えてくるだろう。
(66ページ)

場面は、31歳になったアーナンダマイー・マーが故郷へ行ってみたら家の周辺が跡形もなく、そのとき涙を流して土を拾い上げた、ってだけの話。そこで、このエクスキューズ。甲子園で土を持って帰るイベントを見慣れた日本人には、なんつーことはなく「泣きながら拾い上げただけでしょ」って感じです。著者が同行したわけではないエピソードなので、マー本人か一緒にいた夫か母から出ているコンテンツのはずなので、読みながら「いいんじゃないの? そこは人間らしいドラマのままでも」と思います。
聖者って、こんなふうに身近な人が「この人は、でも、でも、ホンモノなんだ。生きながらにして解脱しているんだ。すごい人なんだ…」という思いで作られていく部分が多いだろうな、なんて思いながら読みました。


この本は、伝記です。
英語版のWikipediaに、この本に記載のあるログを加えると

  • 1896年4月30日 東ベンガル(現バングラディシュ)生誕
  • 1909年2月7日 結婚式
  • 1910年 14歳。この年まで両親と暮し、シュリープルに引っ越す。
  • 1916年 重病になり、両親のもとへ移る
  • 1918年 バジートプルに居る夫・ボーラナーとのところへ戻る(マー22歳)
  • 1922年12月初旬 夫にイニシエーションを与える
  • 1924年4月 夫のボーラナート転職のため、ダッカへ引っ越す
  • 1928年 シッデスヴァリーに最初のアシュラムが建てられる
  • 1938年 夫のボーラナート 天然痘で死去(マー42歳)
  • 1947年 インド・パキスタン分裂
  • 1982年8月27日 ウッタラカンド・キシェンプル・デラドゥーン・アシュラムで肉体を去る(86歳)


ということがわかります。近年の聖者さん。
ラーマ・クリシュナスワミ・ヴィヴェーカーナンダ同様ベンガル語圏の人なので、伝記の後半は先日観た1963年の映画「大都会(THE BIG CITY)」の時代感と重ねてイメージしながら読みました。ベンガル語圏の人は、北インド南インドの人よりもイギリスや西洋文化に対する意識が細かい傾向を感じるので*1、この本にある西洋人との交流部分を興味深く読んだのですが、特筆することがない。たいへんフラットな印象を受けました。


聖者伝のコンテンツとして欠かせない「こんな政治家が彼女に会いに訪れました」「こんな聖者の言葉に共感していました」などの「権威ソーシャル」「聖者ソーシャル」なエピソードもありつつ、やはりこの本の読みどころは夫婦の関係です。女性でアシュラムを作られるまでの人になるということは、夫は確実に大変な思いをしている。特にアシュラムができるまでの夫婦の関係は、かなり前衛的です。そもそもプラトニックだし。
先に引き合いに出したコルカタの映画「大都会」が作られた1963年の時点でも、女性が主となる行動はかなりハードルが高いのがわかっていたので、読みながら「旦那さん、大変…」と何度も思いました。アーナンダマイー・マーの場合は、トランス状態になる人の事例としてラーマ・クリシュナという有名すぎる前例があったとはいえ、それでも親族から多くの干渉をされています。「大都会」もそうでしたが、夫(ボーラナート)の寛容さがすごい。


アシュラムが作られたり家にダルシャンを求める人たちが来る頃の記述に、こんなものがあります。

ボーラナートは、一般の人々が、マーと面会できるようにするには、慣習と自身の独占欲を共に無視しなければならない、と直感的に理解していた。1925年10月、マーの沈黙が終わったとき、彼は、信者達に彼女と自由に話をさせた。つまり、ボーラナートは、次のようなマーの警告を無視したのだ。
「このようなやり方で世間に扉を開く前に、あなたはよく考え直すべきです。人が溢れるように集まり始めると、あなたの力では、その流れを止めることが出来なくなる、ということを忘れないでください」
 その流れは、若いころ二人が楽しんできた、ほんのささやかな私生活を飲み込みそうになりながら、近付いてきていた。
(46ページ)

んなこといってもなぁ。人並みのサービス精神があったら、そうなっちゃうよね。



「旦那さん、大変でしたね。同情いたします」というわたしの感想と引用紹介は、まだまだ続きます。

誕生祭の終わりに、突然、アーナンダマイー・マーは、まさにその夜にダッカを離れることを公表した。ボーラナートは、ラムナのアシュラムに留まることになっていた。彼女は、従順な妻としての役割に従って、出発の許可をボーラナートに求めた。とはいえ、許可が与えられなければならない理由を、とりわけ明瞭にさせながら、
「もし、あなたが『否』とおっしゃるのならば、私はあなたの足下で、直ちにこの肉体を離れるでしょう」
と言った。
(68ページ)

これ、ほんとかなぁ。こっちのほうが、エクスキューズを入れたほうがよいところでは。


この本には、アーナンダマイー・マーが使った、ベンガル語にぴったりな駄洒落の紹介がされているのだけど、「それは、やめてあげてー」と思いました。駄洒落の解説って!
ほかにも、この本は巻末に「補遺」として以下が収録されています。

  • アーナンダマイー・マーによる日々の生活へのアドバイス
  • チャクラに関するアーナンダマイ・マーの観察と説明
  • アーナンダマイー・マーへ信者が捧げた詩より


信者が捧げた詩を載せてしまうと、なんとなく「お客様の声」みたいな薄っぺらさがでてしまうので、こういうのはやっぱりないほうがいいなぁと感じました。
ほかにも、出版物の品質として入れてはマズかったのではと思うテキストがあったのですが、それはアマゾンのレビューに書いている人がいらっしゃいました。*2不滅の意識 ラマナ・マハルシとの会話」(←すばらしい本)と同じ出版社なのに、なんでこんなことになっちゃったんだろ。

いずれにしても、これまで英語で読むしかなかったアーナンダマイー・マーの伝記が読めるようになったのはうれしいことです。


シュリ・アーナンダマイー・マーの生涯と教え
アレクサンダー・リプスキ
ナチュラルスピリット

*1:日本でいう沖縄&アメリカに少し似た関係というと、わかりやすいかな。かなり雑な引き合いの出し方ではあるけれど。

*2:外タレの来日ライブで、通訳が「こっちの歌のほうがいい歌だ」といって別の人の歌を歌い出しちゃった! しかもギター持って来てるし…。みたいな驚きのアクシデントが本の中で起きています。