うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「みんなに白い目で見られる」って、実際そうなら愉快と思っていた


わたしは子供のころ、大人が自然に口にする「白い目で見られる」というフレーズを耳にするたびに、ほんとうに白い目で見る人がいっぱいいる様子を思い浮かべていました。
なんとなくそれは楽しそうなので、白い目で見られることをする=怒られるに値すること、という感じがピンと来ていませんでした。「そんなことをしたら白い目で見られるでしょ」と、なじるような口調で言われても、そのトーンと「白い目」の印象が違いすぎて、ずいぶん混乱しました。


わたしはいま、もう年齢としては中年ですが、こういう感じはずっと治らないもののようです。
子育てをしている人が子供に投げかけるフレーズを聞くと、そこは「HOUSE!」みたいに言っといたほうがよいのでは? と思うほど、思わせぶりでむずかしい話しかけ方をしていると感じることがあります。「ほのめかし」っていうのかな。
子供に「恥」の文化をインプットするときには、もっともっと慎重になったほうがよいと思います。そうしないと、わたしのように他人を疑うことがデフォルト化した、おかしな(かわいそうな?)人間ができあがります。


日本語の表現・慣用句は、身体感覚とは逆の意味のものがあって、むずかしいと感じます。「黒目がち」は、「少女漫画っぽいのに勝ってるの?」と、絵が浮かんで混乱しました。「口が裂けても言えない」も、子供のころは「裂けたら痛くて、喋りたくなくなるのでは?」と思いつつ、「裂けてまで言いたい前提のようなこの感じは、なに?」と察し、大人のエキスの味を覚えてきました。


ことばは変化していくから、後世ほど増えていきます。そのニュアンスにその都度ついて行けないと「おかしい」という扱いをされるのは、しんどいです。
「本を読まない人が多い」と、まるでそれが問題かのようにいわれたりするけれど、街の看板・注意書き・利用規約などなど、世の中にテキストが溢れたら、ハードディスクをいっぱいにしないために「テキスト・ブロック」をするのは自然なバランスなのかも、なんて思います。問題があるとしたら、それはどちらかというと「オリジナルの文章を作れない」ことのほうにあるんじゃないかな。


「大勢に白い目で見られる」といわれると、イナバ物置の上に座っている人が全員白目をむいているような絵を想像します。
脳内がかなりビビッドに愉快なので、「なんか楽しそうですね」なんて明るい性格扱いをされることがありますが、そんなことはありません。むしろ逆です。