「私はあなたの何なの?」「あなたは不潔よ!」「わかんなーい!」などの10のフレーズと発言心理をテーマに、文学作品・映画作品・舞台作品・歌謡曲を引用して紹介し、ついでに著者が本音でボヤくという、たいへんおもしろい構成の本です。
歌謡曲はさすがに古すぎる選曲ですが、文学作品は綿矢りささんの作品など、ヤングにもいけるセレクトが少しだけあります。(少しなの・笑)末尾に紹介作品リストもあって、わたしは外国の文学にうといので、バルザックのこれを読んでみようなどもワクワクする収穫もいっぱい。
渡辺淳一氏の「解剖学的女性論」がフィジカル部門のキングなら、この本はメンタル部門のキングとしたい。
だっていきなり
不美人がたまたま哲学者になったら、「不美人だから哲学に逃げ込んだのだろう」と思ってしまい、「そう思ってしまう」ことを変えるのはなかなか大変なことです。まず瞬間的にそう思ってしまい、次にそれを冷静な気持ちを取り戻して訂正するということが、最も賢明な人にしてやっと実行できること。
(19ページ)
という本音が。この前の文脈もたいへん興味深い。
この本にはさまざまな文学作品の引用があって、わたしの好きな清少納言の「にくきもの」も使われていました。
そして、最高におもしろい流れだったのは、ここ。引用しつつ要約して流れだけ紹介するので、そそられたらぜひ読んでください。
<43〜46ページ 「私はあなたの何なの?」より>
ハイデガーによると、人間存在はすべての存在者(創造物)の中で唯一「なぜ自分は存在しているのか?」と問いかける存在なのですが、地上の妻たちはこの根本的問いをさえ「私は彼の何なのか?」という問いの中にくるめ込んでしまう。つまり、そういう形で初めて「なぜ私は存在しているのか?」という問いが鮮明になってくる、こういう特異な生物なのです。
(中略)
いくつか、事例を見てみましょう。
漱石の『明暗』は、どうも妻をほとんど愛しておらず、昔の女にまだ未練を残している夫(津田)とそれをうすうす感じながらも追及できず、といって「妻」という地位を危うくしようとはしない妻(お延)との風通しの悪い夫婦関係をえぐるように描き出しています。
(中略)
というわけで、お延は心の内でいつも「私はあなたの何なの?」という問いを津田に投げかけ、それが自分自身に対する「私は津田の何なの?」という問いと呼応し響き合って、それが彼女のすべての立ち居振舞いに出てきている。例えば、次のような下女との会話において。
(このあと、お延が「器量」の話をして、下女のフォローを受けるという場面が引用されます)
夏目漱石の小説には、「結婚=金づる」として目当てにされる女性がいて、「明暗」のお延は不美人の設定なので、かなりせつない。そして「虞美人草」の藤尾は美人の設定で逆方向に振り切っている。美醜と女の心のありようの描き方とからめて、この「明暗」の引用を含む女性論は、なんだか納得。
ここも、鋭いと思ったところ。
<145ページ 「私に何でも言って!」より>
女が「私に何でも言って」と頼むときに念頭にあるのは、「私にウソをつかないで」とか「あなたが私の見えないところでしていることをみんな教えて!」という意味ですが、それをそのまま実行すると、自分が心配することになる。だから、じつはこう語る女は普通の論理を捻じ曲げて、恋人や夫や子どもたちに向かって、「私に全部教えても私がまったく心配しないことだけをして」というすさまじい要求を揚げているのです。
いまは「浮気されたので離婚した。わたしもしていたが」というツワモノも居る時代なので古く感じるいっぽうで、こういう要求って「何でも言って」というフレーズ全般にある。「風通しのいい○○」という表現にゾワーッとするなにかに通じている気がする。その風だって人工的な風だろ! というような。
この本は、終盤に向けて著者さんがかなり危険なおじさんになっていくのも読みどころ。これ、しらふで書いてるの? とツッコミたくなる(笑)。女性が男性にいかに見た目で値踏みされているかがよくわかる本です。
この本の著者さんは「男性のブサイクは黙殺される」というところでショボンとしちゃっているのだけど、わたしはどちらかというと「財布の厚さも男の魅力のうち」と開き直る渡辺淳一先生のスタンスのほうがおもしろくて好きです。小説はどうにもキモチワルそうで読めないけど…。(←差別感情です!)
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