うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

なぜ周辺情報を求めてしまうのか

先日ヨガクラスにおいでになった方へ「熊本と新宿をつなぐ作家 漱石・八雲(新宿歴史博物館)」の割引券をお渡ししたら、さっそく帰りに立ち寄ったそうで、こんなコメントが届きました。

今はおろか、昔の人でさえ、
こうして本人の気持ちに関係なく、個人情報(発表するつもりはない写真)にアクセスして、タッチしてしまった後ろめたさも感じました。

わたしもキャッキャ言いながら、こういう感情が薄く下にある。好きな人物の情報を消費している自分をかえりみる。


わたしは夏目漱石の作品をKindle青空文庫で読むので、解説もあとがきもない状態で読んでいる。紙の本を読んだ人と話すと「解説」を読んでいるためか、周辺情報を読んだことによるコメントを耳にすることになる。
「その解説は、誰が書いたの?」「同時代に生きてた人?」「夏目漱石から直接聞いた話が書かれているの?」「会話の背景まで書かれてる?」質問がたくさん浮かぶ。自身の思想を言語化している人による解説は、その人の考え方との接点(主張の紐付けかた)を探す楽しみを与えられるのでおもしろく読めるのだけど、そうでない人によるコメントは、受け売りの情報で場を支配しようとしているかのように見える。




こういうことは、以前はそんなに気にしていなかった。こういうことに敏感になってしまう、具体的なできごとがあった。
こんなことがあった。


まえに知人が亡くなったときに、その人のお別れ会の実行委員をするという人が、急にこんなことを尋ねてきた。


「このつぶやきに書かれている "ある人に言われた" って
これは、うちこさんのことだよね?
いい話なので、お別れ会のときに紹介したいのだけど、
これは、どういう意味?」


そのとき、140字以内で表現しようとした故人の選んだ文脈があるだろうに。と思った。
でもその「美談を乞う人」は、わたしが返答をことわるということをまったく想像していないように見えた。(実際適当に答えておいた)「テロ組織が結成されるときって、こういう心のはたらきから起こるのかな」と思った。


一般人が感情について書くときは、読み手に余計な想像力をはたらかせない、その人の心根にある粘度を無駄に発動させないためのやさしさとして、書けるものなら思考の経緯もあわせて書いたほうがいいと思うことがある。そういう種類のやさしさもある。夏目漱石は人間の心理を経緯を具体的に含まずに美しく書く技術がすごいと思うけれど、自分の考えに引き寄せたい人には大いにそれが利用されやすい文章だ。(だから文豪というのか)


 「普遍」を発する人は好きだけど、「普遍」を転売する人は卑しいと思う。
 そして、それを消費する自分はさらに卑しいと感じて自己嫌悪に陥る。


こういう一連のスパイラルをさまざまな立場で見て積み重なった感情が、先日感想をくれた人のコメントでうまく崩れていった。ずっと崩したかった感情だった。一般社会では、こういう意識の表明は、まろやかなタブー。言えば孤立する。わたしがヨーガ原理主義・礼賛ムードの空間が苦手なのは、そのためだ。
だからといって「美談を乞われても渡さない」という節度が悪とされるのは、あまりにも傲慢ではないかと思う。こういう種類の節度は、アクセルとともに持ち合わせておくべきブレーキのようなものかもしれない。