うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

タオ・コード― 老子の暗号が語り出す 性の五次元領域から迸る秘密の力 千賀一生 著


ヨガのお友だちが貸してくれた本。旅の話と、そこで教わった老子書の解釈が綴られている本でした。
構成が少し凝った内容で、なんとなく日記っぽい文体です。やわらかな読みやすさ、というのかな。旅の話と老子の言葉の説明を行ったり来たりするのだけど、わたしは旅の情景のほうが印象に残りました。

この本の5章のタイトルには、こうあります。

Laozi/TaoCode5
明かされたTaoの真実 ── 秘儀と哲学を重ね合わせた人間本来の生きる道(タオ)
老子は借字を応用して、
一つの詩文も二重の意味を意図的に重ね合わせた。
その一つは、当時の社会が認め得る表向きの内容。
もう一つは、あからさまに書いたならば
当時の社会が受け入れ理解することができないとわかっていた内容だ」

理趣経みたいなんですね。


この本は、旅先で出会ったM老人が、老子の言葉の真意はこうであると話す内容が主軸になっています。
こんなふうに。

<76ページより>
「文明人は性を人間の一部だと思っている。これは大きな誤りだ。性が人間の一部なのではない。むしろ人間が性の一部なのだ。
 文明人は性を生命活動の一部だと思っている。性が生命活動の一部なのではない。生命活動、が性の一部にすぎないのだ。
 性は生命がつくりあげたものではない。生命以前からあるものだ。
 性をみつめれば人間がわかる。人間の本質は性なのだから。
 性を極めれば宇宙がわかる。宇宙の本質は性なのだから」

このあとに「私たちはあまりにも音声の言語にたよりすぎ、この万物がもっているコミュニケーションを忘れてしまったのかもしれない。自然界と不調和な現代の人類のあり方は、確かにその結果かもしれないと私は思った。」という著者さんのコメントがあります。
わたしは理趣経もこういうことなんだろうな、と思いながら読みました。


<87ページより>
 世間の人々がたいそう大事に思っているこの道徳なる言葉であえて性交を示すよう、老子は見事な計算で暗号をしのばせている。「老子道徳経」という、さもありがたそうなこの書物の名前も、実は「老子セックス教」を意味しているという、見事なユーモアがそこにはある。

この後の掘り下げ方は、ちょっと苦手というか、なんとなくこういう気持ちになるとき、わたしは空海さんが最澄さんに理趣経を貸すのを「やだー」って思ったときの感覚を妄想する。ここはわかってくれる人だけ共感してください。噛み砕くとあとがめんどうなとこだから。


<99ページより>
 彼はその不変なる世界を知った。そしてそれが性体験におけるそれと一面で共通するものであることをあえて語ろうとした、おそらく人類史上初めての人物だろう。
 彼はそれを見事な暗号によって封印し、世の権威者たちからの抹殺から逃れることに成功した。
時代とともに学んでみたい部分。

時代背景とともに研究したくなる部分。


<125ページ>
 M老人の話によると、体を伸ばすということはわたしたちが考えるよりもはるかに神聖な意味があるということだ。片方に引っ張っただけでは伸ばしたことにならず、必ずもう片方にも引っ張る力が働くから伸ばすという現象が成り立つ。この陰陽と見なすことができる対極の作用が好ましく働く時に精霊はこの現実界に働きだすのだと彼は言う。もちろんこれは、緊張と弛緩など、それ以外の陰陽にもあてはまる。そしてこれは自然界すべてを貫く法則なのだと説明してくれた。

ヨガっぽい部分。


<139ページより>
 後で世界の体育史を勉強してわかったのだが、私たちが当たり前に現在行なっているスポーツは人類の文化の中では非常に特殊な形態の文化なのだ。人類史の中では例外的なこの形態は、競争経済社会に適した人間性をもたらすために欧米から世界に広がり、人類共通の文化と見なされるようになったものなのだ。私たちは始めからこの西洋スポーツによって育っているので、これが特殊という意味がわからないのかもしれない。

「共通言語としてルールを決めた」という感覚で肯定的に見たら、もはやスポーツじゃなくて芸術という見かたもできると思う。オリンピックがイスラーム圏でまだ開催されたことがなかったというのは、自然なことかもしれないなぁ。
これに似た話を「寝ながら学べる構造主義」という本の感想として「国家は身体を操作したか」という題名で書きました。


<167ページより>
 文明人の物質欲は愛の代償だ。人間の心には、精神の世界と物質の世界を混同してしまう性質がある。異性を自分のものとすることを愛の獲得と錯覚する心理は、物を手に入れることも愛の獲得と錯覚する。デパートで買い物をすることで心が満たされた気がするのも、そうした心理がその裏に潜んでいる。文明社会ではこうして人々が所有欲という倒錯した愛欲を発展させてきた。そうした倒錯的愛欲の飽和点で生まれた制度が、現代の資本主義でもある。

まあ錯覚そのものも自然なことなんですけど、どこまでいっちゃうかってのが問題なんですね。



「いわゆるそれはクンダリニー」「歯のはなし」など、ヨガっぽいエピソードもありました。
「読みやすい」という一般的な語感の雰囲気でいうと、読みやすい本なのだと思うし、映画を観ているような感覚で読める。
一方で、なにか身体観的にグッとくるものを発見すると感動して、あれもこれも同じではないか! と真理論みたいなかんじで展開する気持ちは、わたしもそういうところがあるのですごくよく分かるのだけど、なんというか、それをエモーショナルに書いちゃうとちょっと重いもんだなと感じました。もう少しユーモアがあるとよかったのかな。
ビー・ヒア・ナウ ― 心の扉をひらく本」と似た読後感。
こういう解釈本はちょっと笑えないとヒいちゃう、という人には「性神風土記」をあらためておすすめしておきます(紹介当時は高額だったけど、これを書いて久しぶりに見たら、いまは妥当な値段で買える状態になってますよ☆)。