うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

身体論集成「1.身の現象学」 市川浩(中村雄二郎 編)

市川浩さんという哲学者の「身体論」を、中村雄二郎さんという哲学者がまとめた本。全部で3部構成になっているなかの、今日はその1、です。普通に読みやすいかというとあまりそうでもないのだけど、身体についてじっくり書こうと思うとこういうふうになるのは、すごくよくわかる。汎用的に書こうとすればするほど、文章が理科や物理っぽくなる。現象だから。
ここに書く本は「普通に読む」「転記しつつ読む」「ブログに書きながら読む」と、ピックアップしたところは合計3回読んでいることになるのだけど、この本は転記した後で「なんでここピックアップしたかなぁ」と、さらに何度か読んだ。この本の文体が「方程式の解説」みたいな書き方で、読んだときに置き換えて理解したことまではいちいち覚えていないのですが、とくになにか「こういうことかな」と思うことがあった箇所。
いくつか(一部は要約・整形しつつ)ご紹介します。


ここにある「現象主義的な還元」は、「コミュニケーションの問題」を想起しながら読むとわかりやすいと思う。

<47ページ 現象の被拘束性 より>
 じっさい広い意味での現象主義的な還元がおこなわれるとき、いくつかの前提が、前提として方法的に意識されることなく、無条件に前提されるという暗黙の単純化がしばしばみられる。現象学はそれを徹底的な仕方で排除しようとしたが、現象学的還元においても、現実の還元操作にさいしてそれをのがれることはなかなか困難なのである。
一般にしばしばみられる暗黙の前提にはつぎのようなものがある。

一、 成人の意識やその意識にあらわれる現象を本質的・普遍的なものとして前提し、未成熟な意識形態を排除する(発生論的形成の無視)。
二、 意識性のさまざまのレヴェルを無視する、したがってあらわれている高いレヴェルの顕在的意識・反省可能な明瞭意識のみを問題とし、潜在的意識・直接的な仕方では反省困難な不透明な意識を排除する(意識の成層性の無視)。
三、 現代の人間の意識形態を無条件に前提する(歴史的形成の無視)。
四、 いわゆる文明社会と呼ばれる特定の文化圏の人間の意識形態を前提にする(文明論的差異の無視)。
五、 いわゆる正常な人間の顕在的な意識構造やそれにあらわれる現象を前提とし、異常状態においてはじめてあらわになる潜在的・可能的構造や潜在的、可能的現象を無視する(正常性の無条件的肯定)。
六、 具体的に行動する人間の意識ではなく、観照的・反省的状態の意識を代表例とする(観照的コギトの神格化)。
七、 <現象>についていえば、重層的に仲だちされた現象の意味を、最終的な意識へのあらわれのレヴェルでのみ直観する(媒介性の無視)。
八、 これらの諸前提は多かれ少なかれ、意識の主体が<いま・ここ>に、反省的にいえば<あるとき・あるところ>にあり、歴史的にも、個人史的にも世界に拘束された身体主体であることを忘却することとむすびついている(世界内存在としての身体性の無視)。


(中略)


現象学は、経験科学が自明の前提としている<意味>を再検討し、その<意味>の<意味>を世界との関連で徹底的に読みかえすことによって、<身>と<世界>との関係を再構造化するのである。そのかぎり現象学的還元がなによりもまず現象学自身に向けられるのは、必然の成行きといえよう。

空気読むとか読めるとか読めないとかってのは、「前提」を運動神経的に分解できる人にしか言えないことだと思う。
一〜五は、普通に「まとまらない議論」の背景要素としてスタンダードなのだけど、おもしろいのは、やっぱり六〜八。たとえばおなじ仕事の愚痴でも、六〜八への葛藤がその理由だったりすると、単なる「コミュニケーションの問題についての愚痴を超えているので、「認めるべきもの」や「無視しちゃいけないもの」の話ができる。だから、そんなに嫌なお酒にならない。

<84ページ 身の異方性と世界の始源構造 より>
 エリアーデによれば、人間の身体との相応体系は、インド、シナ、古代中東、中央アメリカという大文明において完全な発達をとげた。腹あるいは子宮と洞窟、腸と迷宮、呼吸と機織りあるいは風、動脈・静脈と日月、脊椎と世界軸(アクシス・ムンディ)、へそあるいは心臓と世界の中心などの対応である。<身 - 家 - 宇宙>は、人が自分に引き受ける生存条件の体系であり、身体や家は、人間が宇宙へとつながる<超越の座標>となっている。すなわち人がこの相応体系を生きるとき、その生活は次元を一つ余計に所有している。かれは人間であるばかりでなく、<宇宙的>でもあり、生活は超越的構造をもつのである。このような生存様式をエリアーデは<開かれた生存>と名づけている。そのとおき人間は開かれた世界に住み、<宇宙的>体験をはてしなく続けてゆくことができる。現代の生活においてもこうした相応体系はその残滓をとどめているが、多くの場合意識にあらわれないまま<無意識の闇>に沈んでいる。

ここはリグ・ヴェーダっぽかったのでピックアップしたのですが、この本で知ったエリアーデという宗教学者さんはサンスクリット語も話せるルーマニア人で、ヨガの本を書いている。ちょっと気になる。


次に引用するここは、「本能」と「知性」と「行動」についての定義のような文章。
アンリ・ベルクソンという人はフランスの哲学者で、西田幾多郎氏にも影響を与えた人であることをのちにWikipediaで知りました。

<110ページ 関係としての認識 より>
われわれが世界内存在であるかぎり、身によって世界が、世界との関係によって身が、相互に限定される。定義がそうであるように、そもそも認識は限定だといえよう。
 ベルクソンは、感覚も本能も知性も、認識のためのものではなく、行動のためのものであると考えた。
(ここからは箇条書きのほうが読みやすいので箇条書きにアレンジします)

本能は
・事象を外からとらえるのではなく、一種の共感的一致ともいうべきものによって、それを内面からとらえる。
・認識ともいえぬほど生命過程に密着しており、ある意味で事象の本質をとらえている。
・しかしそれは共感的関係によって本能的行動を触発する一定の事象にたいしてしかはたらかない。
・種に固有の行動によって限定された認識なのである。


知性もまた行動のためのものであり
・ことに物質にはたらきかけ、支配することをめざしている。
・物質とのかかわりのなかで、物質を操作するはたらきに即して形づくられる。
・その限り知性もまた行動によって限定されている。
・ただ知性は、特定の事象にたいする特定の固有な行動に適した認識ではなく、内容は空虚な関係的・形式的認識である。
・逆にいえばそれだからこそさまざまのことなった事象に適用することができる。
・知性は行動のために発生したとしても、その対象は限定されていないから、直接役に立たない事象にたいしても適応可能である。


(ここから普通に転記)


 その意味で知性は本能をこえる。そのうえ知性のうちには、知性が本能と分岐する以前の衝動のいくらかが残っているはずである。そこでベルクソンは、本能的共感によって対象と内面的に一致しつつ、自己自身を反省し、しかも本能のように適用対象が限定されない超 - 知性ともいうべきものを考える。ベルクソンはこれを晩年のかれ独特の用法で<直観>と呼ぶが、この直観も、事象との共感的関係によって限定されている。相互に限定されることがないというのは、無関係ということである。無関係をも関係の一形態として分類することはできようが、真に無関係であれば、認識は成立しないであろう。

本能は「共感的関係によって本能的行動を触発する一定の事象にたいしてしかはたらかない」というのは、特に女子たちの間にありがちな「共感」のはたらきによくみられるから、「一定の事象」で終わる刹那的なところが理解しやすい。
知性が支配を目指しているというのもまたおもしろいし、「内容は空虚な関係的・形式的認識」だからこそ汎用的だというのもおもしろい。「そこはwin-winで。ぐへへ」なんていう支配共有の、あのなんともいえない苦手な感じが分解されている。うわっと流行るビジネス用語やライフハック系のさまざまな知識は象徴的だなぁ。
そして、「適用対象が限定されない超 - 知性」すらも事象との共感的関係によって限定される本能から逃れられない。あーあ、となって、さらに「逃れようとしたら認識は成立しないから、そもそもおもしろくないかも」となっているのがかわいらしく思える。
そういうことを考えるってだけで、哲学者というのはすごくおちゃめな気質が欠かせないのだと思った。

<113ページ 関係としての認識 より>
 アプリオリが「経験に先立って」あるいは「経験をはなれて」を意味し、アポステリオリが「経験より後に」あるいは「経験にもとづいて」を意味するとすれば、アプリオリ - アプステリオリの二分法は、過度の単純化である。さらに経験を純粋の感覚的経験にかぎるのは、下意識的レベルから仲だちされたレベルまで、さまざまのレベルで身が事物や他者とかかわる具体的経験の矮小化・抽象化にほかならない。感覚的経験から一切の認識をみちびき出そうとする「構造なき発生主義」は、経験そのものを制約している条件や、経験が含んでいる感覚的経験以外の世界把握を無視している。また生得的な観念や生成的な構造をもった知性を前提する「発生なき構造主義」は、経験をとおして、知性が社会的・歴史的・個体発生的に制約されつつ、構成されていることを忘れている。

アプリオリ、アポステリオリというのはカントが使った言葉。「過度の単純化」というのは本当にそうであるなぁ、と思う。昨日の日記に書いたようなこともそうなのだけど、「経験」と「未経験」の間にあるグラデーションを認識する作業に「向き合うか」「避けるか」の違いはすごく日々の生き方のうえで大きなものだ。
「避ける」ことをバネにしたポジティブというのが昨今とてもやっかいなウイルスなので、気をつけなければならない。これはヨガの場面でもよく見られる。

<130ページ 直接的認識を拘束するもの より>
 自己組織化する関係的存在としてわれわれ自身をとらえれば、この両義性は関係の本質であることが理解されるだろう。自己組織化においては、<中心化>は<関係化>と同義だからである。われわれが個体として自己組織化し、中心化するのは、生理的レベルにおいても、社会的・文化的レベルにおいても、世界とかかわる関係化をとおしてである。物質代謝という環境とのかかわり(物質交換やエネルギーの転換)なしに自己組織化することはできないし、他者とのかかわりなしに自己を自覚し形成し、文化的世界とのかかわりなしに今あるような文化を<身>につけ、内蔵した人間であることもできない。それとともにわれわれが縁によって生起すること(縁起ないし依他起性)は、同時にわれわれが縁となって何かを生起させることでもある。受動=能動性という両義性もまた関係あるいは縁起の本質なのである。
 したがってある対象や事態の直接的認識は、つねにより広大な関係の網を包括する暗黙知によって支えられ、暗黙知は知以前の暗黙の相互関係によって限定され、方向づけられている。

「あの人ジコチューだよね」といっているわたしもその一部、みたいな話。「能動的かそうでないか」を良い悪いとする議論はただの「共感」や「ポジティブ・コーティング」の域にしかなくて、着目すべきは生命力の火種のようなものじゃないかと思う。


あまりスッと入ってきにくい文章なので集中力のあるときに読んだのだけど、そこでしていたことはひたすら「置き換え」。読む人それぞれの置き換え案件があるはずです。「いろいろあるよね」とか「いろんな人がいるよね」というのは、それのきっかけが世のニュースでも自分の周囲の出来事でも、どんな人の日常にもよくある友達同士会話だと思うのだけど、それで一時的にはスッキリしても、あきらめはできないですよね。
哲学、宗教学、東洋医学などはうちこにはすべて同じところにあるものなのだけど、「あなたはきっと大丈夫」という口当たりのよい文章よりも、こういう文章から自分の思考を自分で置き換えてみるのはものすごくよいエクササイズ。こういうのは、何ヨガっていうのかなぁ。コンバート・ヨガとでもいおうかなぁ。

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市川 浩
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