気軽に読めるのですが、ときどきものすごいギャグセンスのものが登場したり、その奥行きにのけぞったり。
厳しい自然の中で生まれたイスラームの心がリアルに伝わってきます。
アラブ、トルコ、エジプト、レバノン、シリア、チュニジア、パレスチナetc……、各場所で語られる似た性質の格言を著者さんがグルーピングし、鮮やかでときに手厳しい解説を加えています。
まずは格言だけ特選のやつをピックアップしますわね。
笑いのセンスにパンチがあるもの。
息子を探していたら、肩の上にいたんだよ。(アラブ)
アラブにもあるんだ聖者の漫才。
嘘つきの母は処女。(中世アラブ)
なんだこのおもしろさ。
幸福論も、深い。
神が貧しい人を幸福にしようと思ったなら、彼のロバを行方不明にして、それからまた見つけ出すようにしてやればいいのだ。(トルコ)
病もそう。
不運は固形石鹸のようなものだ。初めは大きなかたまりだが、次第に小さくなる。(アラブ)
つよくてやさしい。
もし人類が裁くのを急がなければ、全人類は天国へ行く。(レバノン)
急がなければ、かぁ。
コミュニケーション術も、深い。
あなたに何かくれる男がいたら、そいつはすでにおまえから何かをとっているのだ。(マルタ)
だから、さっともらえばいいんだよって。何かを期待されているとか、自分で自分を窮屈にせずに。
一度蛇に咬まれると、曲がりくねった縄まで怖くなる。(アラブ)
本音で話さない人が増える、の法則。
知恵の教えも、ズドンと響く。
空っぽの袋はまっすぐに立たない。(トルコ)
うまいこというなぁ。
もしも見ているだけで技量が身につくなら、どの犬も肉屋になれる。(トルコ)
犬はよくおバカさん役で登場します。
そして、なんだか心に残った、この一文。
雲り日は狩のため、風の日は眠りのため、雨の日は娯楽のため、晴れた日は商売のため。(アラブ)
自分に対して「なに忙しぶってんの」と思うときに読みたい。
わかりやすいイスラーム文化の解説がたくさんあるのだけど、たとえばハムラビ法典。
<44ページ 戦争 より>
戦いをおこす原動力はいくつかあるが、そのもっとも普遍的なものは復讐である。世に正義の戦いを口にする人が多いが、私のみるところ、正義のためなどに人はなかなか動くものではない。しかし、自分の家族、部族、財産、権利あるいは恥の感覚などに対して加えられた暴力を人は決して忘れることはない。そしてその傷から立ち直る唯一の方法は、復讐を実行することなのである。
紀元前十八世紀に制定されたといわれるハムラビ法典が「目には目を、歯には歯を」と記載したというので、我々はこの復讐が法として定着したことを知っている。ハムラビ法典で規制されていることはしかし、非常に進歩した人間感情の処理法であったと言えるだろう。「目には目を、歯には歯を」は、決して復讐を勧めたり、拡大させたりするものではなく、むしろ受けた傷と同じ量だけ厳密に返すようにという「同害復讐法(レックス・タリオニス)」を明記したものであった。つまり目を一つ潰された男が、怒りに任せて相手の両目を潰すことがないように、一つの耳を切り落とされた男が、相手の両耳をそがないように規制したのである。
怒りに任せて暴走するなと。
<83ページ 知恵 より>
医療設備のない荒野で健康を損ねることは、私たちが考える以上に深刻な危機である。日本人は病気をどこかでなめているところがある。何しろ電話一本で救急車がやってきてくれて、必ず無料でどこかの医療機関へ運んでくれる。そこで少なくとも、痛みや化膿や血を止めるといった、必要な応急処置は取ってもらえる。
しかし、多くのアラブ人たちの住む土地に医療機関はない。救急車もただではない。救急車が倒れている男の家に来て、そこで患者の家族と輸送費用についての交渉を行なう土地は、地球上で決して珍しくないのだ、救急車が待っていてくれるのは、患者の家族が家の周辺を走り回って親戚や知人から金をかき集める時間だけだ。それが不調に終わると救急車は患者を残して立ち去るのが普通である。
私は多くの土地で、軽い手足の指の化膿さえ止められない人たちをたくさん見た。裸足で歩いて不潔にも孤独にも栄養不良にも重い荷を運ぶことにもすべて強いようにみえる人々が、手足の指の化膿を止める方法がないことには、苦しんでいた。だから彼らなりの健康法も語り継がれている。
- 昼飯を食ったら横になり、夕飯を食べたら歩きなさい。(エジプト)
契約社会と平等のきびしさ。そこから生まれる自立の健康法。
この本全体を通して、著者さんイズムがストレートに押し出されているのだけど
<92ページ 人徳 より>
- 他人を信じるな。自分も信じるな。(アラブ)
日本人は信じるという言葉を、無考えに美徳として使っていると私はかねがね思っている。信じるということは、疑うという操作を経た後の結果であるべきだ。疑いもせずに信じるということは、厳密に言うと行為として成り立たないし、手順を省いたという点で非難されるべきである。
私の経験からすると、多くの場合、疑った相手はいい人なのである。すると疑った人間(私)は恥じることになる。しかし疑わずに騙されて、相手を深く恨んだりなじったりするよりは、疑ったことを一人で恥じる方が始末が簡単なのである。しかも疑った相手がよい人であったとわかった時の幸福はまた、倍の強さで感じられる。
きびしくて、やさしい。
「信じる」以外にも、無考えに美徳として使われている言葉が多くて、わたしの飲み友達はそれを「ポジティブ・コーティング」というのだけど、この感覚って大事だと思うんだ。わかりやすく前向きな表現を口に出すことによって得たい快楽は、黙っていて得るほうが沁みる。
漠然とした印象だけど、「せこい思考に陥らないための戒め」が多い。
わたしは「けしからん」とか「いかがなものか」というような言葉や気持ちの種がよく気になるのだけど、この本を読んでいたら、イスラームにはそういう気持ちにならないための教えがいっぱいあるなぁ、と感じました。