うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

歎異抄 (岩波文庫) 金子大栄 校注

わたしがはじめに触れた歎異抄。薄い一冊なのだけど、いろいろな思いや親切でおもしろい解説がついたものよりも、初めて読むならこのくらいシンプルな解説で読むのがよいと思う。わたしは、そうだった。
古文で読む→現代訳を読むというプロセスのなかで、さまざまな思いが湧きあがる。
歎異抄は前半が親鸞語録、後半が唯円追想訳(ボヤき)なのだけど、このツートーン構造の妙味が実にいい。


「結」の章より (ここは唯円パート)

(古文)
おほよそ聖教には、真実権仮ともにあひまじはりさふらふなり。


(この部分の現代訳と説明)
聖教には真実と方便とが交っている。われらはそれを見乱さないようにしなければならない。種々の異義は、真実と方便とを分かたないところから生ずるのである。

権力のある人の発言したものの喩えやフレーズが連呼されたり引用される場面にありがちなモヤモヤを、すっぱりと唯円が斬る。親鸞の思想に添えられた唯円のことばが、いい。


この本は、冒頭にしっかり説明がある。<教義>の説明のここは、しっかりとインプットしておきたい。「悪人正機」「本願他力」、いずれも理解しやすくなるはず。

 我らは現実に不安と苦悩の裡にあって、それを脱れようとしている。知識と道徳とは、そのために用意されているのである。されど知識は身命の保持をなしうるも生死の不安を除くことができない。そのために不安は知識とともに加わってくるのである。また道徳はいかに規定して見ても、自を善とし他を悪とする執情をどうすることもできない。そのためにいよいよ煩悩を増長し罪悪を重ねることとなるのみである。そこに自力では救われないという事実がある。

「自を善とし他を悪とする執情」は、永遠に超えられないものだと言い切るところからはじまる。親鸞のすごさはここに凝縮される。究極のバランス快楽主義。


次に紹介する箇所は、とてもヨガっぽい。なんてもんじゃない。ヨガより沁みるうえに、わかりやすい。念仏はあくまで、行の材料のひとつと捉えて読もうね(とくにヨガ方面の人。本題は念仏の部分ではない)。
同じく<教義>の解説より

 しからば「本願を信じ念仏をまうす」ものの「仏となる」過程はいかなるものであろうか。
それは本願を信ずる者には大悲が感ぜられ、念仏をもうすものは摂取不捨の光に護られているからである。念仏するとは。常に摂取の光の中に自身を見出すことである。したがって念仏する身には、人間の一切の生活は、すべて光明摂取の中に行われるものとなるであろう。
そこに善に誇らず悪を愧じ、悲しみの裡にも喜びを見出し、快楽の上にも反省せしめられるものがある。また自ら我執を離れ、他の立場を了解して真実に協和しゆくことともなるであろう。それは煩悩のままに流転しゆく人生が、「仏となる」ものへと転成するのである。この摂取不捨の利益によってえられる境地を「正定聚の位」という。それは正しく報土往生に定まれるものということである。またその摂取不捨の徳として身心に現われるものを、柔和忍辱という。それは硬直と柔弱とにあらざる健全の身心である。

親鸞の教えは危険だ。いいじゃんいいじゃんと言いたい人の格好の餌になってしまう。理趣経のようなところがある。でもこれが、逆の踏み絵のような役割を果たしていたということでもある。歎異抄は、「かねてより言い訳をしたかった人」をあぶりだした。


さて、ここからいよいよ本編の「ボヤキ」です。歎異抄は、親しみやすくいうと「俺そんなつもりで言ったんじゃないんだけどな〜、集」「深すぎるボヤキ」という感じがするんです。
親鸞の語録範囲のなかでは、わたしはこの「六」がいちばんグッときた。
(ここは古文でも推測でつかみやすいので、古文のまま引用します。冒頭部のみ)

専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほか子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり。

荒涼というのは「すさまじい無遠慮な言い分。とんでもないこと。」と注釈にある。
めちゃめちゃハッキリいってるのだけど、古文だと見た目がまろやか。古文をマスターしたくなった。


唯円の歎異のなかでは、「十三」の、ここがいい。古文では、こんなかんじ。

また、うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるのも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつなぐともがらも、あきなひをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。

以降は現代訳を紹介します。

 我らは、その日その日の生業のほかに、何事もできぬものである。またその生業のためには、いかなる振舞もするものである。そのあさましい身なればこそ大悲の願心も感じられることである。しかるに異義者は、念仏する者を、何か殊勝なるものに思い、念仏の道場へ入るにも制限をつけようとする。それは賢善精進の相を外に示して、内に虚仮を懐けるを省みないものではなかろうか。

肉食妻帯のゆえんが垣間見える。究極のリアリティ。もはやロケンロー。


同じく唯円の「十六」も響いた。ここは古文だとわかりにくいので、出だしを現代訳で。

 信心の行者ならば、悪しき言行をなした時には自然に廻心すべきであるという。ここに問題となるのは、その自然と廻心との意義である。

この続きはとても濃いので、歴史と一緒に学ぶことをおすすめします。五木寛之氏が推しているのは「悪人正機」ではよりもこっちの「自然法爾」。わたしもこっちのほうが、身に沁みる。



親切な歎異抄解説本はたくさんあるのだけど、シンプルな一冊をまず読んでから、個性的な人たちによる解説バージョンを読むとさらにおもしろい。そういう順番がいいと思う。
歎異抄が最高におもしろいところは、それぞれの人に「私訳」ができてしまうところ。「アタしゃ、こう読んだね」という話で何百字も書けそうなのだ。いろいろな人のOL歎異抄が読みたいよ(笑)。
これは究極の「煩悩メッタ斬りテンプレート」。
おそろしい教えです。

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