うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

文芸と道徳 夏目漱石グルジの大阪ライブ録


最近気づきました。漱石グルジの偉大さがどこにあるか。
それは、「めんどくさい性格をチャームに昇華させた語り口」です。句読点なく怒涛のリズムで続くトムキャット調のなかに、急に短文を入れてきて、そこでおとす。そこでキューンとなります(←ばか)。
このテキストもネットで読めますので、ぜひとも読みましょう。



生声で聞いてみたかったなぁ。どんなリズムで話していたのだろう、と思うのはここ。

実はこういうように原稿紙へノートが取ってありますから、時々これを見ながら進行すれば順序もよく整い遺漏も少なく、大変都合が好いのですけれども、そんな手温い事をしていてはとても諸君がおとなしく聴いていて下さるまいと思うから、ところどころ ―― ではない大部分端折てしまってやるつもりであります。しかしもしおとなしく聴いて下されば十分にやるかも知れない。やろうと思えばやれるのです。

最後のとこ「しかし」以降、どんなふうに話してたんだろ。気〜に〜な〜るぅ〜。



現に私がこうやって演壇に立つのは全然諸君のために立つのである、ただ諸君のために立つのである、と救世軍のようなことを言ったって諸君は承知しないでしょう。誰のために立っているかと聞かれたら、社のために立っている、朝日新聞の広告のために立っている、あるいは夏目漱石を天下に紹介するために立っていると答えられるでしょう。それで宜しい。けっして純粋な生一本の動機からここに立って大きな声を出しているのではない。この暑さに襟えりのグタグタになるほど汗を垂らしてまで諸君のために有益な話をしなければ今晩眠られないというほど奇特な心掛は実のところありません。

このめんどくさい自己紹介から、善悪二元論、社会論、と話が展開していくの。ただのつかみなの。当時からこんなトークしてる人がいたなんて、びっくりだし、とにかくリズムも自虐もセンスがいい。



すべて倫理的意義を含む個人の行為が幾分か従前よりは自由になったため、窮屈の度が取れたため、すなわち昔のように強いて行い、無理にもなすという瘠我慢も圧迫も微弱になったため、一言にして云えば徳義上の評価がいつとなく推移したため、自分の弱点と認めるようなことを恐れもなく人に話すのみか、その弱点を行為の上に露出して我も怪しまず、人も咎めぬと云う世の中になったのであります。

ねえねえグルジ、いまはインターネットの社会になってね、「こちとら弱者だぞオラオラオラ〜」という人が増えて、表現側の人たちが困ってるみたいだよぉ〜。と話しかけたいけど、きっとグルジはそんなことも予知していたんだろうな。




このあと、「坊っちゃん」と「草枕」に出てくるあのアイテムが登場するよ!

例えば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中に何かの拍子で、卑陋な御話ではあるが、大きな放屁をするとする。そうすると諸君は笑うだろうか、怒るだろうか。そこが問題なのである。と云うといかにも人を馬鹿にしたような申し分であるが、私は諸君が笑うか怒るかでこの事件を二様に解釈できると思う。

この前後の話はけっこう濃いのだけど、そこで「放屁ネタ」をもってくるのがすごいわー。ちなみにあのアイテムというのはオナラです。ぜひ読んでみてください。




このあとの指摘は、ひょえーとなる。

今一つ注意すべきことは、普通一般の人間は平生何も事の無い時に、たいてい浪漫派でありながら、いざとなると十人が十人まで皆自然主義に変ずると云う事実であります。

「浪漫派」と「自然主義」については全体を読むとわかるよ。



だから私は実行者は自然派で批評家は浪漫派だと申したいぐらいに考えています。

わたしが思うに、夏目漱石はプラクティカルなことに信仰心があったと思うんです。なのでグルジと呼んでおるわけなのよ。



そこで私は明治以前の道徳をロマンチックの道徳と呼び明治以後の道徳をナチュラリスチックの道徳と名づけますが

視点もコピーワークも最高。



社会が文芸を生むか、または文芸に生まれるかどっちかはしばらく措いて、いやしくも社会の道徳と切っても切れない縁で結びつけられている以上、倫理面に活動するていの文芸はけっして吾人内心の欲する道徳と乖離して栄える訳がない。

漱石グルジの在家カルマ・ヨーガ論。ばっさり。すっきり。



この感じをインド人に翻訳して伝えられないのが残念。


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文芸と道徳
文芸と道徳
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(2012-09-27)


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