うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

寝ながら学べる構造主義 内田樹 著

ヨガ仲間のチカコさんが貸してくれました。とりあえずこの本を読んだ後に「構造主義」という言葉についてWikiを見てみたら

構造主義(こうぞうしゅぎ)とは、狭義には1960年代に登場して発展していった20世紀の現代思想のひとつである。広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す言葉である。


(中略)


構造主義という名称から、イデオロギーの一種と誤解されがちであるが、今日では、方法論として普及・定着している。数学、言語学精神分析学、文芸批評、生物学、文化人類学などの分野で構造主義が応用されている。

とありました。
たしかにこの本を読む限りでは「分解の方法論」という印象です。言語学精神分析学だけでなく身体論に及んでいるところが面白い。ヨギのチカコさんが「うちこさんコレ好きだと思うわぁ」といってこの著者さんの本をすすめてくれた理由がよくわかる。
この本は3回に分けて紹介していきます。後日2つの要素について別途書きますが(ニーチェは「憶断の虜囚」を罵倒する / 国家は身体を操作したか)、今日はこの本全体の感想です。いつものように引用しつつ書きます。

<18ページ 私たちは「偏見の時代」を生きている より>
いま、私たちがごく自然に、ほとんど自動的に行っている善悪の見きわめや美醜の判断は、それほど普遍性をもつものではないかも知れない、ということをつねに忘れないことがたいせつです。それは言い換えれば、自分の「常識」を拡大解釈しないという節度を保つことです。

常識がグラグラに感じがちな今、沁みいる導入です。

<28ページ マルクスの地動説的人間観 より>
「普遍的人間性」というようなものはない。仮にあったとしても、それは現実の社会関係においては、「現状肯定」──「存在すること、行動しないこと」を正当化するイデオロギーとしてしか機能しない。マルクスはそう考えました。人間は行動を通じて何かを作り出し、その創造作物が、その作り手自身が何ものであるかを規定し返す。
生産関係の中で「作り出したもの」を媒介にして、人間はおのれの本質を見て取る、というのがマルクスの人間観の基本です。


(中略)


 ネットワークの中心に主権的・自己決定的な主体がいて、それがおのれの意志に基づいて全体を制御しているのではなく、ネットワークの「効果」として、さまざまのリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」は決定される、というこの考え方は、「脱_中心化」あるいは「非─中枢化」とも呼ばれます。
 中枢に固定的・静止的な主体がおり、それが判断したり決定したり表現したりする、という「天動説」的な人間から、中心を持たないネットワーク形成運動があり、そのリンクの「絡み合い」として主体は規定あれるという「地動説」的な人間観への移行、それが二○世紀の思想の根本的な趨勢である、と言ってよいだろうと思います。

マルクスは不勉強でよく知らなかったけど、面白い。宇野千代ヨギみたいだ。


<67ページ 「肩が凝る」のは日本人だけ!? より>
 外国語を母国語の語彙に取り込むということは、「その観念を生んだ種族の思想」を(部分的にではあれ)採り入れることです。そのことばを使うことで、それ以前には知られていなかった、「新しい意味」が私たちの中に新たに登録されることになります。私の語彙はそれによって少しだけ豊かになり、私たちの世界は少しだけ立体感を増すことになります。
 ですから、母国語にある単語が存在するかしないか、ということは、その国語を語る人たちの世界のとらえ方、経験や思考に深く関与してきます。


このあと、身近な例を一つ挙げましょう、として以下のことが語られます。(以下箇条書きに整理)

題材:「肩が凝る」

・英語には「肩」「凝る」ということば自体は、ある。でも英語話者は「私はこわばった肩を持つ」という言い方をしない。
・「肩が凝る」とだいたい同じ身体的な痛みは「背中が痛む」 I have a pain on the back と言う。
・英語では、根を詰めて仕事をすることを「重荷を背中に背負う」 carry a burden on one's back という。
・同じく、熱心に働くことを「背骨を折る」 break one's back という。
→英語話者は仕事のストレスを「肩」ではなく back に感じ取っている、ということが分かります。


(以下本文の続き)
 日本では、誰かが「背中が痛い」と言ったら、「病院に行ったら?」と応じますが、「肩が凝った」と言う人に対してはほとんど反射的に、「ご苦労さまでした」と返します。それは「肩が凝った」というのは単なる身体的な痛みの表現ではない、ということを私たちが了解し合っているからです。「肩が凝った」という訴えが「自分は本来の責任範囲を超える仕事をして、疲れたのだから、ねぎらって欲しい」という社会的なメッセージを含んでいることをみんな知っているからです。

たしかにスリランカブッディスト詐欺に遭ったとき、「あなたのその痛んでいる背中には……」て言われたな。肩こり的な意味だったのか?! 肩こりで宝石売りつけようとしたのか?!
ほかにも日本語では「胃が痛い」「アタマ痛い」も近いものがあるかな。うちこは「胃が痛い」を小太り以上の人が使うとき「あれ? さっき昼ごはん食べてたよね? 2日くらい食べるのやめなさーい。死なねーから。胃をとにかく空っぽにして、休ませなさーい!」と言ってしまう面倒なヨギです(笑)。

<90ページ 狂気を肯定するのは誰? より>
 一七世紀ヨーロッパをフーコーは「大監禁時代」と呼んでいます。それはこの時代になって、近代社会は「人間」標準になじまないすべてのもの ── 精神病者、奇形、浮浪者、失業者、乞食、貧民、などさまざまな「非標準的な個体」── を強制的に排除、隔離するようになるからです。


(中略)


「一七世紀になって、狂気はいわば非神聖化される。(略)狂気に対する新しい感受性が生まれたのである。宗教的ではなく社会的な感受性が。狂人が中世の人々の風景の中にしっくりなじんでいたのは、狂人が別世界から到来するものだったからである。いま、狂人は都市における個人の位置づけにかかわる『統治』の問題として前景化する。かつて狂人は別世界から到来するものとして歓待された。いま、狂人はこの世界に属する貧民、窮民、浮浪者の中に算入されるがゆえに排除される。」(『狂気の歴史』)


 私たちの常識とは逆のことをフーコーはここで書いています。狂人は「別世界」からの「客人」であるときには共同体に歓待され、「この世界の市民」に数え入れられると同時に、共同体から排除されたのです。つまり、狂人の排除はそれが「なんだかよく分からないもの」であるからなされたのではなく、「なんであるかが分かった」からなされたのです。狂人は理解され、命名され、分類され、そして排除されたのです。狂気を排除したのは「理性」なのです。
 こうして狂人の組織的「排除」が進行するに従って、狂気の認定者も変わります。誰が狂人であるかを決定する権利が「司法」から「医療」に移行するのです。

勝手に身近な題材である「こころの風邪」などといわれるものに置き換えます。震災をきっかけに、東北東日本を中心にかつての「非常」や「無常」や「不便」がさまざまな形で初期設定化されているのがこのごろの状況なのは、日本の半分の人々が感じているとおり。
うちこはこのブログで過去に心理学の本を紹介したり、インド人による心の分解のことばや、身近なところでは「クレーマー」の心理などを紹介してきました。すごく短くまとめると、こういう本はどれも「エゴの取り扱い方」についてのさまざまな角度からの解説です。
心理学の本の中にはすでに何十年も前から、うちこわがざわざオブラートに包んで書いている「こころの風邪」については「その強いエゴをどうやり過ごして、巻き添えになる人を救うか。そのためには、まずあなたの想像を超えるその思考の構造と、エゴが満たされないルーチンの計算式を理解しましょう」ということが書かれている。
今回の震災以降のことについて勝手に想像しているのですが、この分野のことにおいては、広くみんなが意志する形で「なんであるかがわかった」ということがマジョリティになる日はそう遠くない気がします、というか、ぐっと近づいた気がします。
「非常ではない状態で、そのエゴの出し方は得策ではない」ということに多くの人が気づくからです。
「助け合う」のはすばらしいことです。そのなかで、「助ける相手」を日常的に選別する技術力がボトムアップしている。先のマルクス地動説でいう「行動したい意志の人」が優先されるようになる、と考えるのが自然な流れに思えます。

<96ページ 王には二つの身体がある より>
 フーコーは身体の苦痛についても興味深い考察を行っています。刑罰の歴史における身体刑の分析を通じて、前近代の身体刑があれほど残忍であったのは、刑罰がめざしていた身体が私たちの身体とは「違う身体」だったからだ、とフーコーは論じています。


(中略)


 「王は自らのうちに二つの身体、すなわち自然的身体と政治的身体を有している。彼の自然的身体は、可死的身体である。しかし、彼の政治的身体は、目で見たり手で触れることのできない身体であって、政治組織や統治機構から成り、人民を指導し、公共の福利を図るために設けられたのである。」(カントーロヴィチ『王の二つの身体』)


(中略)


 フーコーはこの国王ニ体論に着目して、国王を弑逆しようとした大逆罪の犯人への残忍極まりない身体刑の意味を解き明かします。フーコーによれば、大逆罪とは王の「自然的身体」ではなく、「政治的身体」を侵そうとした行為なのです。だからこそ、その刑罰は罪人の「自然的身体」ではなく、「政治的身体」をこそ標的とすることになります。
 車裂きとか、火刑とか、溶けた鉛を傷口に流し込む刑とかの残虐極まりない身体刑が狙っていたものは、受刑者個人の脆く、傷つきやすく、すぐ死んでしまう「自然的身体」ではありません。そうではなくて、大禁を侵したものが毀損した「王の政治的身体」の対極に、それに拮抗する、不死にして不壊の「弑逆者の政治的身体」を想定して、大がかりな身体刑によってそれを破壊することをめざしたのです。

こうやってあらためて解説されると、なるほど、な部分。フランス革命でのギロチン刑や江戸時代の市中引き回しなど「これは晒すことに意味があるのだろうけれども、しかし・・・」と思っていましたが、奥はこれですね。
そして、うちこが大好きな「地獄絵」は人類共存の掟を破った罪として、仏教の宗教絵の中でそのように表現されている。地獄のスタッフさんたちが楽しそうであればあるほど惹かれてしまう理由が少しだけ「まっとう」な感じにみえてくる、ありがたい解説でした。

<163ページ 人間の本性は「贈与」にある より>
 レヴィ=ストロースによれば、人間は三つの水準でコミュニケーションを展開します。財貨ザーヴィスの交換(経済活動)、メッセージの交換(言語活動)、そして女の交換(親族制度)です。


(中略)


レヴィ=ストロースが私たちに示してくれるのは、人間の心の中にある「自然な感情」や「普遍的な価値観」ではありません。そうではなくて、集団社会ごとに「感情」や「価値観」は驚くほど多様であるが、それが社会の中で機能している仕方はただ一つだ、ということです。人間が他者と共生してゆくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがあります。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルールです。

「世の無常」を嘆くのではなく「無常が性(さが)でして。テヘヘ」と。「同じ状態にあり続けることができない」なかで交換をはじめるかどうか。

<174ページ 記憶は「過去の真実」ではない より>
 フロイトによれば、精神分析治療は、患者が無意識的に抑圧している心的過程を意識化させることで、症候を消失させることをめざしています。(「番人」が追い返していた「抑圧された心的過程」を「意識の部屋」に連れ出せば、症候は消失する、というのがフロイトの治療観です。)「意識化」というのは、要するに「言語化」ということですから、分析治療とは、「これまで誰にも話したことのない<ほんとうの自分>についての物語を語る」こととも言えます。
 被分析者の語ることばには「核」があります。ただし、物語の「核」とは必ずしも「真実」のことではありません。


(中略)


 私たちが忘れていた過去を思い出すのは、「聞き手」に自分が何ものであるかを知ってもらい、理解してもらい、承認してもらうことができそうだ、という希望が点火したからです。だとしたら、そのような文脈で語られた「自分が何ものであると思って欲しいか」のバイアスが強くかかっているはずです。それが真実なのか、欲望が作り出した物語なのか、聞き手はもちろん思い出しつつある私を含めて、誰にも確かめることはできません。


(中略)


「無意識の部屋」に閉じ込められて「冷凍保存」された記憶を「解凍」すると、「昔のまま」の記憶が蘇るというふうに考えるのは、おそらく危険なことです。記憶とはそのような確かな「実体」ではありません。それはつねに「思い出されながら形成されている過去」なのです。


(中略)


 意外に思われるかも知れませんが、精神分析的対話は、被分析者が「ほんとうに体験したこと」や「ほんとうに考えていること」を探り当てるためになされているのではありません。いくら語っても、おのれの中心にある「あるもの」に触れることができないという構造的な「満たされなさ」から被分析者は決して逃れることができないからです。被分析者が語っているのは「空語」です。全力を尽くして、被分析者は自分について語っているつもりで、むなしく「誰かについて」語っているのです。「その誰かは、被分析者が、それこそ自分だと思い込んでしまうほど、彼自身に似ている」だけなのです。
 しかし、それでよいのです。どれほど「漸近線」な接近に過ぎなかろうとも、「自我」について語ることによって、被分析者と分析家のあいだで創作され、承認された「物語」の中での「私」という登場人物はどんどんリアリティを増してゆくからです。

この説明の結びに、フロイトの技法は「無意識的なものの代わりに意識的なものを立てること、すなわち無意識的なものを意識的なものに翻訳すること」だと書かれています。
営業もかわんねーんだよなー。

<197ページ コミュニケーションにこそ価値がある より>
 分析家は分析が終わると、必ずそのたびに被分析者に治療費を請求しなければならない、というのが精神分析のたいせつなルールです。決して無料で治療してはならないというのは大原則です。ラカンの「短時間セッション」は場合によると握手だけで終わることがありましたが、そのときでもラカンは必ず満額の料金を受領しましたし、料金を支払えなかった被分析者には平手打ちを食わせることをためらいませんでした。「お金を払う」ことは非常に重要なのです。なぜなら、被分析者は分析家に治療費を支払うことで、精神分析の診療室において「財貨とサービスのコミュニケーション」である経済活動にも参与することになるからです。
 精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではありません。「治す」ことです。そして、「治る」というのは、コミュニケーション不調に陥っている被分析者を再びコミュニケーション回路に立ち戻らせること、他の人々とことばをかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往環運動のうちに巻き込むことに他なりません。そして、停滞しているコミュニケーションを、「物語を共有すること」によって再起動させること、それは精神分析に限らず、私たちが他者との人間的「共生」の可能性を求めるとき、つねに採用している戦略なのです。

対価をもってフローさせよう、という考え方が、イイ。
先日紹介した「悪人正機」という本の中で吉本隆明氏が語られていた「ボランティアっていう、ただで奉仕するんだっていう、あれも好きじゃありません」「"労働が人間の価値だ" みたいなこと言っても、ウソだ」というのと通じると思う。
ずっと続けていく志を保つための仕組みとしてある「対価フロー」は、とても「愛を感じる仕組み」と思う。いきなりそれを否定したところから始まることの方がよっぽど「非常限定」で、ずっと付き合う気がない前提のように感じる。


不安になると、人は絶対的(この本の中で出てきた表現では「天動説的」)な強い言葉を求めたりするけど、求められた人にとっては、面倒な話でしかないと思う。この要求が発現する時点で「無常逃避」が始まっているから。
その要素は誰にでもあると思うのだけど、それを他人に求めるかどうかの境界はすごく大きなものであると思う。


ちなみにこの著者さんの本は、「まえがき」と「あとがき」がいつも楽しい。人の言葉を借りてはいるけど、うちこには「自分の言葉で、自分の身体で語れないバカがどんだけ面倒くさいか」ということを吐き出したがっている本のように思えました。
人の文章を踏み台によくわからない主張をする人のことについても、同様の意向がうかがえる表現を以前別の本のまえがきで書かれていました。読んでいるこちらのほうが、半分スナックのママのような気分で「愚痴を楽しく」聞いている気分になるこの面白さは、なんだろう。きっとうちこの中のオッサンと気が合うんだろうな。


▼おまけ:過去の同著者さんの本の紹介
街場のメディア論」「日本辺境論

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
内田 樹
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★おまけ:内田樹さんの「本棚リンク集」を作りました。いまのあなたにグッとくる一冊を見つけてください。