うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

シェアする。分かち合うこと。

昨日「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」という映画の感想を書きましたが、今日はそのなかで感じたことからひとつ、日常と照らし合わせて思ったことを切り出して書いてみようと思います。

以前、「霊性」という単語について思うことを書いたことがあるのですが、今日は「シェアする」という動詞についてです。
うちこはIT企業で働いているので、カタカナの単語をわりと多く使う職場だと思います。うちこも昼間はどっぷりアキバ系OLなので「毎日ヨガするのがデフォルトの生活なんで。」くらいの用法まで、相手が同じカルチャーであれば、使います。ヨガ道場の仲間と話すときは、そんな言葉は使わない。このへんのノリはもちろん、使い分けています。
職場では、「シェア」という言葉を耳にする場面が多いです。「それ、部内でシェアしておいて」という指示があったり、「〜についてシェアさせていただきます」なんてメールもしょっちゅう来る。


そんな中、この映画の最後のほうでチャンドラさんが使った「シェア」という言葉が、全く違うものに聞こえたんです。
以下、記憶からの再現です。

この村の人は、貧しいもの同士で、シェアします。食べ物を分かち合います。
私が訪ねていくと、その家の台所には食べ物なんて何もないことがわかっているのに、中へ招き入れられます。ときには、隣の家の台所から食べ物を持ってきて、私に分け与えます。
隣の人がそれで怒るなどということは考えていません。そのときは、「困っている人がいたから、食べ物を与えておいたわ」と言えばいい、そんなふうに、とにかく、シェアするんですね。


わたしはキリスト教の教典よりも、ダリッドの村人の中に神を見ます。

「シェア」という言葉のあたたかさと重みが、全然違う。


普段自分が無意識に職場で使ったり耳にしている「シェアする」という言葉とは、全然違う。
自分も同じくらい、もしくはそれ以上に困っているかもしれないけれど、シェアする。比較のモノサシではないんです。
そして、何より違うのは「困っている状況に対して」分かち合うという意味で使われていること。


今まで私が職場で使ってきた「シェア」といったら、
求められている先を吟味しない情報の垂れ流し方であったり、逆に確実に届けなければいけない相手に届いたかも確認せずに「メールでシェアしましたが」なんて口にしてしまう人もいる。
「周知」「共有」もっと浅い「公開」、さらに下がって「言いましたよ」くらいのレベルで、誰も困っていないところに押し付けられるように届くこともある。


社交辞令に近い印象を受ける。
情報の受け手には、「やっつけられた」むなしさがある。
必要かどうかもわからないことを「押しつけられた」印象を受けることがある。
この人は、本当に自分が仕事で困ったときに、助けてくれるだろうか。


いまもし、「あの人なら、助けてくれるだろう」と思う「友達ではない人」が思い浮かんだら、その人はきっと素敵なカルマ・ヨギです。



年金の問題や少子化の問題の背景にも、この感覚に似たものがあるように思います。

「テイク」できないなら「ギブ」しません。

あなたが私より確実に困っていることを確認できない限り、「ギブ」しません。




ふたたび仕事の場面に戻すと、

評価されないかもしれないことは、やりません。

この後に実になることが約束されないのなら、その種まきになるかもしれないことすら、引き受けたくありません。


これは「全体でバランスすることの放棄」で、半径数メートル以内の損得計算しかできない、ひどく暗算の弱い大人が量産される価値観。でも、それが個人の意識の中にじわじわと巣食っているような、そしてそれが「デキるやつのやり方」として、薄っぺらくそれこそ「シェア(笑)」されているような気がする。
宿便を1週間分ためながら、ネイルサロンに行くような全体感の無さ。


「困っている状況に対して」というのは、必ずしもな条件ではないけれど、せめて「わかちあう」意味のあるものであるか、いつも問うようにしなければいけないな、と思いました。