うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

言葉のチカラ 香山リカ 著


まえに、「日本語は、心のはたらきかたを表す動詞が圧倒的に少ないのではないかと思う」という話を書いたことがありますが、この本には、日本人同士が日本語でコミュニケーションをとるときの機微についてのあれこれが、ゆるゆると綴られています。
著者さんは医師であったり教師であったり作家であったりテレビのコメンテーターであったりするので、対応相手も状況もいろいろです。どれもわたしが暮らす状況とあまりに違うので、分解の方向性に気になる視点が多くて参考になりました。
カウンセリングとマインドコントロールの違いの説明に「カウンセリングは相手の過去を否定しない」というのがあって(82ページ)、すごくいい説明だなと思ったのですが、そんなふうに、やわらかな分解がされています。


わたしは昨年から英語を話す時間が長かったので、また日本語の生活に戻ってから、ここ数ヶ月でいろいろと感じることがありました。そんななかで自分の課題と思ったのが

  • 日常では必要に応じて言葉を冗長化していく
  • 自分の中の欲の根元にアプローチする


ということ。この両方をやっていくことが、心の平安を保つのに必要なバランス対応であるなぁと考えるようになりました。これができると、心を開ける相手とリラックスして話せる時間の、根っこの温かさの熱が高まる。というのも体感としてあります。
昨年、三人の外国人とルームシェアをして暮らしていたのですが、うち二人はわたしのことを「stable」と言い、ひとりは「closed」と思っていたそうです。やはり人間同士、コミュニケーションに求める粘度や湿度はお料理と同じ、化学反応。



なんというか、仮に里芋になりきってみたときに
「そもそもわし里芋だけど、ジャガイモっぽく調理されるぶんにはまあ、この時点ではよしとしておこう」というような、半分自我を手離すような、そういう気持ちの柔らかさが身につくと、いろいろ楽になりそうです。
ですが、「ソーセージと合わせてビールのつまみにしてみるところまでは、アリだったと思う。がしかし、里芋のわしがカレーに入るとなると、影響範囲的にいろいろハッピーじゃない」という場面に直面したらどうするかというのは、もう銀座のNo.1ホステスに弟子入りするような、そういう修行が必要そうな域です。



この本は、銀座道場まで行けない人の気持ちをラクにしてくれます。
紹介までの前振りが長くなりましたが、いくつか、紹介します。

<「今度ごはんでも」より>
 よく私のまわりでも、「仕事のチャンスをくれるのかも、と食事の誘いに応じたら、向こうはすっかりデートモードだったの。そうとわかっていればお断りしたのに」という声を、働く女性たちから聞く。

デートモードでなかったとしても、いい仕事に結びつかなそうな誘いの香りくらいは察知したいもの。不況になるとなんだかんだいって、女性はこういう面で不利なんでしょうね。わたしはキャラ的にこういうのはないのですが(笑)、勉強モードな餌で「貴重な機会を与えてあげましょう」という流れで食事に誘われることはあります。その場合、取引されるのは性ではなく別のことなのでしょうけれども、「貴重かどうかを決めるのはあなたではない」というあたりまえの前提は忘れないように心がけています。



<「私の身にもなってくださいよ」より>
 精神科医は人の気持ちが手に取るようにわかる仕事なんでしょう、と言われることがよくあるが、それは違う。一輪の花を見ても、そこに何を感じるかは十人十色。その人の認知、思考、感情のパターン、そして記憶と結びついて、それぞれの感じ方が生まれる。たとえ「きれいだね」と同じ感想にたどりついたとしても、その「きれい」の内容や程度までがまったく同じということはありえないだろう。


(中略)


 しかし、それでも「私の気持ちをわかってもらいたい」と思うのも人間の自然な欲求であろう。とくにつらいとき、苦しいときには、「わかりますよ」と言ってもらえるだけで、なんだか救われたような気持ちになる。その場合、自分の気持ちがどれくらい性格に理解されたかは、それほど重要なことではない。

動物同士がなんとなく寄り添っていたり、そういうことと同じように考えられるようになったのはごく最近のことなのですが、たぶんわたしは動物より虫ばかり見ていたから気づくのが遅かった。犬や猫を飼っている人は、こういう面で人間力が高いかもしれません。



<「いつもこうなんだ」より>
 不思議なことに多くの人は、よいことが起きたときに「子どものときもクジが当たったんだよね。私っていつもラッキー」と結論づけることはない。なぜか、悪いことに限って過去のできごとと結びつけようとするのだ。それだけ人間とは、自分に厳しいものなのだろう。

これは、ヨガ的には「自分に厳しい」のではなく、「タマスって粘度が高くて重いのよ」って話です。サーンキヤ哲学はこういう面で、理論としてすごく優れていると感じます。ヴェーダンティックに「それもマーヤー」と言われるより救いがある。「未来の苦は、回避することができる(ヨーガ・スートラ:2-16)は、その後の節句で展開する説明も踏まえた上で、名句だと思います。



<「なんとかなりませんか」より>
 ここで、ちょっと違う角度から考えてみよう。あまりに困ってつい「なんとかなりませんか」と言って、本当に「なんとかなる」ことはいったいどのくらいあるのだろう。あまりほめられることではないが、私のように「なんとかなりませんか」と言われると、落ち込んだり逆ギレしたりしてさらにスピードが落ちる、という人もいることを考えると、「なんとかして」「じゃ、なんとかします!」と片がつくケースはそれほど多くないのではないだろうか。
 それでも、何かを言わずに黙っているのは耐えられない。予定どおりにことが運ばず、困っている私の気持ちだけでも、なんとしても相手にわかってもらいたい。
「なんとかなりませんか」「なんとかしてよ」は、具体的に相手に何かを要求するための言葉というよりは、実は自分の感情を伝えるための表現なのかもしれない。

「なんとか」という言葉が出てくる時点で、それは簡単ではないことわわかっている場面。ここでは「なんとかして」と言われる側の視点で書かれていましたが、逆の立場でのことを考えたとき、「なんとかならんものか」という気持ちを減らすためには、やっぱり苦行萌えになるしかないんじゃないかと思います。バガヴァッド・ギーターは、そこんところを巧妙に扱っている。



<ここからちょっと余談な感想>
この本には、インターネットの普及によっておかしくなってしまった言語観への指摘もあります。これがすごくよかった。
「本当にいいのですか?」というフレーズの使い方の指摘で、メールマガジンや有料サイトの解約手続きを取ろうとするときに、「本当によろしいのですか?」と念を押されるプロセスで普及し、それがリアルにもどってきて、ヘンであると書かれていました。人を思考停止させるような、親切めいた語尾の言葉の黒魔術への指摘です。(先日書いたスパムの話と似てるの)


メールの送信時間とコミュニケーションのあり方についても触れられていました。いまはパソコンのメールを携帯に転送している人が多いから、パソコンのドメインだからって非常識な時間は避けたい、というもの。この本は2011年の本なので、いまはもっとそういう人が多い。というかスマホのアドレスがgmailという人も少なくない。ここはマナーの感覚が一周して、適正化されていくプロセスをたどるかな。震災であれだけネットネットと言った後だし、そうじゃないとおかしい気もします。


実際、5年前くらいはまだ、インターネットのサービスはこういう感覚そっちのけで、「いけいけ! おせおせ!」のムードが強かった。人間の生態機能よりもビジネスの効率化の方が優先されていたように思います。
アメリカのサーバを間借りしてアメリカ人ドライブな環境で日本人相手にサービス提供をしている会社の友人が、「アメリカ人の時計でメール送信をすることを余儀なくされちゃってよいものか。早朝4時に携帯へ物販宣伝のメルマガが届く人がいるが」ということの調整で苦労していた。

 友 人:ありえないよね(ありえないと、言って。という感じで)
 うちこ:日本の商慣習的に、逆効果。やめたほうがいいパターン。
 友 人:だよね…。ほんと、これをどう伝えるか…
 うちこ:そこユーの仕事よぉ。そこ折れたら日本人が調整に入ってる意味なくなっちゃうぞ。
 友 人:んだ! がんばる!

なんてことがあった。彼女はちゃんと悩む人で、ふんばる背中を押してくれという感じだったけど、実際こういう場面であまり悩まない人も多いと思います。だから海外主体のサービスからは、深夜にメールがバンバン届く。



最後はネットの話になってしまいましたが、こういう本は、たぶん手を変え品を変えという感じで、コンスタントに新しいものを読んでいったほうがいいと感じました。わたしが今日ピックアップしたところは、一般的にはあまり刺さらないところじゃないかと思います。
気軽に読みやすいし実際読むとためになる指摘が多いので、通勤時の読書によいですよ。接客業の人に特におすすめです。

言葉のチカラ (集英社文庫)
香山 リカ
集英社 (2011-11-18)
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