うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

般若心経の真実 佐保田鶴冶 著

般若心経の真実
以前、佐保田先生の「ウパニシャッドからヨーガへ」の感想を書いたときに、「"佐保田博士の意外すぎるチャーム"については、後日書く予定の別の本の紹介をお楽しみに。」と予告した本が、これです。

ヨギのみなさんにとっては、般若心経がぐっと身近な存在になること間違いなし。原本から読み取ってヨギにやさしい解説をしてくれる博士はほかにいないので、宝物のような解説本です。77ページからは、「これについてはラーマナ・マハリシ(ラマナ・マハルシ)師がわかりやすく説明してくれた」という話の流れで、マハルシ師の言葉も登場します。突然のルポ。なんじゃこの本!

この本は、2冊が一緒になったような構成で、はじまりのところに「この説が非常に面白いので本にしましょうと言っていただいたのだけど、本にするには量が少ないから、ほかの話もくっつけた」そうです。

 ●前半は、表題の通り「般若心経の真実」という本(ページ名を赤で書きます)
 ●後半は、さまざまな場所で説いた講話集(ページ名を紫で書きます)

になっていて、字の大きさも内容もまったく前後半で分断されます。しかも、前半の字が大きい(笑)。たしかに量が少なかったんですね。


この本を読んでわかったのですが、佐保田先生はこれはしっかり伝えなければならないと思うインド哲学を語るときはおそろしく学者・博士肌。いっぽう、翻訳以外の自分の言葉で出すものについてはおそろしく気楽。このギャップがたまりません。
しかも、うちこにとってはたまらなくツボである、「乱歩小説に出てくる淑女の語調」で書かれています。こんなに血潮が乱れを為すような書籍というのも、なかなかお目にかかれるものではございません。(←もう乗り移ってる)
いままでスートラだのプラディピカーだのウパニシャッドで触れてきた佐保田博士のイメージが、イメージがっ! という感じなのですが、そのギャップを思う存分お楽しみください。ただ、中身はやっぱり博士(ウパニシャッドとかヨーガ・スートラとかサンスクリット語から訳しちゃう人)なので、ちゃんとしています。


この本の雰囲気全般に言えることなのですが、この本は1982年出版。イエスの方舟事件の2年後で、後半の章の中に一部「イエスの方舟」について軽く触れる箇所があったのですが、佐保田先生の語り口に「うさんくさいと思うなら、思えばいいさ。けっ」みたいなスタンスが見え隠れします。
この本が出版された頃、NHKの番組出演などでうわーーーっとヨーガが広まった時期だったので(うちこの母がヨーガをやりだした頃です)、たぶん社会からの目としてそいういう風潮のコメントを受けることなどがあったのでしょう。時代背景も楽しめる本です。

前半の「般若心経の真実」の中の文章で、「有っていて」という綴りがよくでてくるのですが、ここは「もっていて」と読めば正しいかと思います。前置きが長くなりましたが、心に刺さったところを紹介します。事実上2冊分なので、長いです。

<はじめに より>
私は(さまざまな般若心経の訳を読んできて)最後に弘法大師の「般若心経秘鍵」という有名な書物を拝見して、目が覚めるような感じがしました。でも弘法大師にも全面的に賛成することができない。とにかく自分でやるより仕方がないと思って書き始めたのです。

空海さんはそう言うけど、ほんとかなー というところから始まります(笑)。



<37ページ より>
 観音の音ということばの原語スヴァラ(svara)は、バラモン哲学の方で大昔から特別な意味を含ませておりました。紀元前八世紀頃の作ではないかと評価されている文献であるチャーンドギャ・ウパニシャッドのなかにも「スヴァラ(音声)は不滅、不死、無畏なるものである」とありまして、スヴァラはかの宇宙最高の実在である梵(ブラフマン)のこととされておるのでございます。やや後世のウパニシャッドのなかには、バラモンの最高聖典である三つのヴェーダを三つのスヴァラだといっている個所もございます。この際とくに注目すべき文句がアムリタビンドゥというウパニシャッドのなかにございます。それは、
  「音を以ってヨーガを結び、無音の至上者を観想せよ。」
 この一句は説明を要すると存じますが、この句に対するインド人の注釈と、この句の前後の文を参照して講釈いたしますと、こういうことになるのでございます。ここで「音」と申しますのは、おなじみの「オーム」という音のことでございます。「音を以ってヨーガを結ぶ」というのは「オーム」という音を唱えて瞑想にはいることでございます。
(中略)梵という音をも離れて瞑想することによって「われは無限定、無分割、不変な梵である」という悟りを開き、そしてまちがいなく梵に達し、解脱を全うする、とこんなような意味を含んでいるのでございます。
(中略)
 「きさまはヨーガを宣伝するために、なんでもかんでもインド教へ結びつけようとしおる。きさまの言うことはとんでもないこじつけだよ」とおっしゃる向きもあるかと存じます。しかし、これは無理なこじつけではありません。拙老をして言わしむれば、観音様の御名前の由来をこじつけなさったのは、仏教徒の方でございます。古来の仏教徒がインド教やバラモン教を格段に低い宗教と見下し、なんでもかんでも自分の宗教だけが高級な宗教だと思い、他を外道とか何とかいって卑しめてきたのが、そもそもまちがいでございます。

流れで読むとわかるのですが、これは「日本の仏教徒」のことを指していて、当時いろいろと批判などを受けていた様子がうかがえますが、やはり原語やインドの仏教とその周辺にあった哲学の流れをふまえながらの解説は興味深いです。「音を以ってヨーガを結び、無音の至上者を観想せよ。」をそのまんま、よくわからずに先に実践から入っているヨギのみなさんも多いかと思いますが、こういう解説を読むと、仏教がぐっと身近なものになるかと思います。



<47ページ より>
智恵というものは人間の実践と結びついているものでございまして、中国の筍子という人は「君子(教養の高い人物)の学問は耳から入って心に定着し、それからカラダ全体にゆきわたるものである。小人(教養が低くて私利私欲に支配される人物)の学問は耳から入って口から出てしまい、耳と口のあいだ僅か数センチばかりの間を通過するだけで、一メートル半以上のカラダをかざることはできない」と書いております。

こりゃすごい。ということで、メモ。「数センチ」という具体性も、いい。



<62ページ より>
ハンニャ・ハラミッタというのは女性のボサツのお名前でありまして、このお名前には「智恵の極限」または「最高の智恵」という意味があるのでございます。この最高の「智恵」はどんなものか、どういう性質のものかを明らかにしようというのがこれからの経文のねらいでございます。これを観音さまがお釈迦さまのお弟子のなかの最優等生でありますシャーリプトラ(舎利弗)長老を相手に説き示してゆかれるという趣向で経文は展開してまいります。

舎利弗が阿難陀だったら、ぐっと色気が増しちゃって煩悩を掻き立てる展開になってしまい、写経どころじゃなくなっちゃったかも。
 


<73ページ より>
サンスクリットの原本のなかには、この「色不異空」の句の前に「色は空なり、空は色なり」という句がございますが、これは今日の流布本では省かれております。(中略)これについてシナの論師のなかでも弁証の雄である嘉祥大師法蔵は随分と緻密な概念分析をしておられます。それによりますと、色と空との関係は、互いに矛盾するけれども、互いに相手の存在を妨げないばかりか、互いに相手を成立させているのだ、ということでございます。しかしながら、両者は矛盾関係にあるのだから両者が同一のレベルで共存するというわけではありません。一方が廃止されなければ他方は成立しないし、一方を滅ぼさなければ他方は顕われない。しかも、両方は倶に存立し、両者ともに滅びる。(中略)このように法蔵論師はむつかしい議論を展開してござるのであります。

この、カットされた原本の中の句の話、興味深いです。



<77ページ より>
 しかし、二つのことだけは申し上げておく必要がございます。一つは、真我というのはわれわれが考えている自我とは全然別のものだということでございます。われわれの絶え間ない意識の変化の過程に統一性を与えてゆく力を有った一つのイメージなのでございます。この観念は変化し成長してゆく意識の外にあるわけではございませんし、意識外の何物かのイメージというわけでもございません。これをインドの哲学では、我慢(アハンカーラ)などと名づけて真我(プルシャ)とは区別しているのでございます。我慢は外の物理的世界に対して内の心理的世界の原理として、同一のレベルにあるものでございますが、真我は智恵、直観の世界に属するものでありますから、我慢とは全くレベルのちがったものでございます。
 もう一つ申し上げたいことは、客観性のない、色すなわち外的世界は「まぼろし」に等しいという点でございます。インドではマーヤーと申します。マーヤーというのは奇術師がその魔術を以って作り出した幻(まぼろし)のことでございます。法蔵さまも色のことを幻色と申されております。外界がまぼろしでありますならば、そうと知れば消えてしまうはずでございますし、それには実際の結果を生むような力は無いはずでございます。ところが、自然界はそんな頼りのないものではなく、われらの意図には左右されない、厳然たる実在性を有っているのはどうしたわけでございましょう。
 これについて、インド近世の聖哲ラーマナ・マハリシはうまい説明を与えて下さいました。その説明の概要をかいつまんで申し上げましょう。
 ヨーロッパの思想家は、世界の本質はマーヤー(幻影)にすぎないと説くヴェーダーンタ哲学の主張に反対します。それは無理からぬことです。外部の世界は内部のエゴと同じ程度の実在性は有っているのですから、自分のエゴの実在性を信ずる以上は外界の実在性を否定することはできないわけです。ヨーロッパの哲学のなかにはエゴは実在であるが、その他はすべて実在ではない、と主張する(主観的概念論)ものがあるが、これは明らかに妄説であります。例えば、夢について、夢のなかの自分だけは実在で、その他のものは人物も風景もすべて実在しないと考えるならば、それは妄想であります。夢の世界は自分もふくめてすべて客観的な実在ではありません。それと同じように、エゴが実在として受け取られている限りは、外界もまた実在として受け取られなければなりません。われわれ自身のエゴの非実在なることを悟った時に、外界の存在もまたマーヤー(まぼろし)にすぎないことがわかるのです。真我(アートマン)をとらえた最高の智恵の次元に立った時に初めて、エゴも外界もともにマーヤーにすぎないと主張することができるのです。こんなことを言った後で、彼は次の意味のことをつけ加えました。
 「世界の万象は真我の現われとしては実在なのだ。真我とは別の客観的存在としての世界は非実在である。」
 この最後のことばは奇しくも心経の説くところと一致するように思われます。五蘊を初めとする一切万象は「空」、すなわち真我の現象として見るならば、改めてその実在性も容認せらるべきであるということになりましょう。これが「色と空は同じものである」という心経の本意ではないかと思われるのでございます。

我慢(アハンカーラ)と真我(プルシャ)の区別の解説として、とてもわかりやすいと思いました。例えば、夢について〜のところはラマナ・マハルシ師による解説です。
(参考日記 わりとおなじような感じ「不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話」「あるがままに―ラマナ・マハルシの教え」)

<82ページ より>
(「諸法空相」の一句のこと。佐保田氏は「空」を真我のサインとみる立場であると事前にまえがきしています)
ここで皆さまにもう一度想い出していただきたいのは、ここではハンニャの智恵の内容の解説が目的になっているということでございます。それに「真我」というものは智恵の次元に於て初めてとらえられるものでございますから、観音さまはその次元で語っておられるとみなければなりません。そういたしますと、真我を手がかりとしてとらえられるわけでございます。ここでは諸法が主語となって、真我が客語となる形になるわけでございます。諸法は真我を介してその存在を確保されたわけでございます。諸法のあらゆるあり方、限定を片っぱしから否定するものは、かえって諸法のほんとうの姿は一味平等であって、無限絶対であることを強調するがためであるということになりましょう。ラーマナ・マハリシ聖者の言われた如く、真我と別のものとしての万物はマーヤーにすぎないが、真我と一体としての万物は実在であるということになります。万物は相対差別の面と平等一味の面とを有っていて、それぞれ知識と智恵の内容をなしている。その平等の面に於ては万象ことごとく真我である、とこういうふうに理解するならば、大乗仏教の哲学だけでなくインド伝統の哲学の最も深い層に触れることになるのではないかと愚考いたすのでございます。
 もう一つつけ足しておきたいと思いますのは、重ねてゆくというスタイルには二つの心理効果があるということでございます。一つは真智に到達するために、雑念を払う効果があるということでございます。インドではすでにこの手段を用いました。かの有名な大哲人ヤージュナヴァルキヤが「非々のアートマン」(neti neti atman)という名称をつけたものです。もう一つは、否定の連続は読むもの、聞くものの心に弛緩をもたらすということでございます。心経は巧まずして、これらの心理効果をあげているのでございます。

「否定の連続は読むもの、聞くものの心に弛緩をもたらす」というところは、本当にそうであるなぁと。いろいろなカリスマの話術スタイルとか、こういう目線で見てしまいそう。

<102ページ より>
 そこで、いよいよ最後のマントラの講釈の段取りとあいなったのでございますが、昔からマントラとかダラニ(陀羅尼)とかいったものは翻訳したり、講釈したりしてはならない、というしきたりがございます。それで、シナの先徳たちは、マントラやダラニは、インド音をうつすのに誠に以って困難な漢字を使って音訳し、意味を表わす翻訳の手段を使うことを避けられたのでございます。玄奘三蔵の高弟であられる慈恩大師も「これはインドの正音で、秘密の句であるから、翻訳すると霊験が無くなるので、梵語の発音のままにしてあるのだ」と書いておられます。

お。いよいよきました、メインイベント!(なぜか興奮しがちなアノ句、きますよー)



<104ページ より>
 このマントラを講釈致しますには、どうしてもサンスクリットの原文のお出ましを願わねばなりません上に、学者ぶった議論も少々展開しなければなりませんので、しばらくのご辛抱を願い上げます。先ず原文をローマ字でお目にかけます。
  gate gate paragate para-samgate bodhi, svaha!
gate は gata という女性の形容詞の呼格(よびかけ)の形でございます。従って、paragate も para-samgate も女性形容詞の呼格の形でございます。形容詞である以上、形容される名詞があるはずでございます。その名詞はまさしく bodhi(菩薩)という語でございます。この形は正式の文法では呼格ではございませんが、今は仏教梵語という破格の文法で呼格の形と見てさしつかえがございません。よって gate から para-samgate に至る形容詞は bodhi という女性名詞に格を合わせたのでございます。

「学者ぶった」って(笑)。そして、グッと色っぽくなっちゃう般若心経。の種明かし。あと、「svaha!」といったら普通はお供え物とか差し出す行為とセットじゃないと、ちょっと神様も「おや?」という文章の流れらしいです。この編の解説も面白かった。
日本語で言うと
 唱える人「つまらないものですが、おひとつどうぞ」
 観音菩薩「あら、まぁ」
      ・・・・・
 観音菩薩「って、手ぶらで言ってるだけかーい!」
みたいな展開らしいです。面白いですね。



<110ページから、おわりまで>
 キリスト教でマリヤさまが王の母として大いに信仰を集めるようになったのは紀元六世紀の末期でございました。その後マリヤ信仰はますます盛大になってきたのはご承知の通りでございます。インドで現在カーリー女神が最も人気があるのと好一対ではございませんか。ゲーテファウストのいちばん最後のコーラスを、
  「永遠なる『おんな』がわれらを引きずり上げて下さる」
と結んでおります。「おんな」とは母性のことでございます。少しエッチな話のようになりますが、女性の胸のふくらみは母性のシンボルではございませんか。そこが女性の美しさの焦点でございましょう。女性の方々に、そのことを自覚し、反省して頂くことをお願いいたしたいと存じます。無責任なハッタリ屋におだてられてウーマンリヴなどということばに踊らされる婦人はあわれと申す外はございません。立派な母性となってこそ男性にかつことができるのでございます。
 オン、マニ、パドメー、フーム!
 〔註 これはチベット仏教とにとって至高至尊のマントラです。これは一方ではわれわれ個々人の深奥にまします唯一神への祈りであると同時に、他方では最高女神への呼びかけでもあります。〕

「ウーマンリヴなどということばに踊らされる婦人はあわれと申す外はございません」というところに、めちゃくちゃ時代を感じます。




面白いよなぁ。めちゃくちゃまっとうな解説なんだけど笑えてしまう「般若心経の真実」は、ここまで。

以下は、後半のおはなし。後半は「講話ログ」みたいな感じで、以下の場で行なわれた講話が収められています。
●ヨーガと宗教 1980.09.21 大阪市城東区ホールでのヨーガ大講演会にて
●ヨーガの根本 1979.09.22 東京・朝日新聞社での講演
●ヨーガと神経 1980.06.01 日本自律訓練学会講演
●日頃のヨーガ 1981 夏期特別研修会
●インドにおける気の概念 1977.03.01
●インドの道場におけるハタ・ヨーガ修習の実際 ─ T・バーナードの報告から─ 1974.03.31

<117ページ ヨーガと宗教 より>
カーストバラモンのことに軽く触れた後)
 ヨーガという行法は、そのバラモン階級のなかにあらわれてきた非常に程度の高い宗教です。おまじないのような宗教ではなく、ただ神様助け給えという信仰だけの宗教でもありません。瞑想して自分のなかに深く入っていき、自分のなかの神を見るのです。みなさんの実態は神ですから、みなさんのなかに神はおられます。その神を瞑想してつかむ、あるいは悟るのがヨーガの最後の目的です。

余裕のあるところから生まれているという背景は、見過ごせない。と思ったので、メモ。



<144ページ ヨーガの根本 より>
 ヨーガでは、元々切り離すことのできない人間の心と身を一つの体操のなかで働かせるので、人間全体の改造が可能です。また、そこまでいかないとヨーガの効果とは言えません。見かけが丈夫そうになったとか、肌がきれいになったなどは大したことではなく、人柄がいいほうに変化することが大切なのです。自分にとって好ましいだけではなく、他人にとってもいい人だと思われる人間になることが、ヨーガの最後の目的です。

はい!(ビシッ) と背筋を正して読んでしまいました。



<159ページ 日頃のヨーガ より>
ハタ・ヨーガ・プラディピカーによるとアーサナは八十四あったそうですが、今では三百をこえています。これから考えてもヨーガの体操は今、行なわれているもの以外にないとは断定できません。ここが大切です。私達の考えでは、みなさんが自分でヨーガを発明するという野心を持ってもいいのです。創意、工夫が許されると思います。インド人に対しても絶対的な追従はしません。
(中略)
 よく、「インドのどこそこの道場ではこのようにやる」と言う人がいます。ヨーガは現代人がつくったものではありませんし、インドのおみやげではありません。インドでやっているから日本でもやった方がいいとは言い切れません。

今はアメリカを経由してきたものが多いと思うのですが、ここで残念なことは、足首を使うアーサナがこの経路によってかなり減っている気がすること。日本人は、「正座!」の三文字でヴァジュラ・アーサナがほぼ全国民できてしまう、ある意味おそろしいヨギ集団なのに。




最初のほうに書いたとおり、2冊まったくテーマの違う本がくっついているので、テンションが散漫になってしまいましたが、とにかくめちゃくちゃ楽しい本でした。インド哲学の言葉に慣れない人には難しく感じる引用があるかもしれませんが、同著者さんの代表的な書籍のほとんどはこの数倍難しいので、うちこ的には「佐保田博士が降りてきた!」という印象でした。

▼おまけ 佐保田先生の本
ヨーガ根本教典
続・ヨーガ根本教典
ウパニシャッドからヨーガへ
ヨーガ(NHKやさしい健康体操)

般若心経の真実 (1982年)
佐保田 鶴治
人文書院
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