うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

チベット問題 山際素男 著

これもご近所友達のユキちゃんちの本棚から借りてきました。
著者の山際素男さんは今年の春、3月19日に他界されました。「破天」もそうでしたが、この本も光文社によって新書化。真実を訴え続ける著者のメッセージを真摯な姿勢で世に届けるというのは、すばらしい仕事だと思います。五木寛之さんが以下のように書いておられましたが、

よく情報と言います。けれども、いま流れている情報は情報ではありません。情報というのは、悲しみとか怒りといった<情>がしっかりこもっていなければいけない。けれども、一般に言われている情報というのはたんなる数字です。
本当の情報は人から人へ伝えられます。

この本は「不可触民」を読んだときのように、現実の酷さをまざまざと見せつけられる一冊。ダライ・ラマ氏、チベット尼僧、その他現地のチベット人のみなさんとの対話から得た、チベット問題の本当の情報です。ダラムサラ仏教論理大学学長/ゲシェー・ロサン・ギャッツォ氏のお話は、ヨギ的に非常に興味深い内容でした。
いくつか、紹介します。

<55ページ コレガル居留地へ より>
 インドの社会はいたるところで常に血に染まり、酷たらしい惨劇、悲劇に彩られている事実を否定することはできない。と同時に、その山川草木、大地のどこを切りとっても神々の姿があり、人間との交感が何千年と決して途切れることなく続いている。異なった宗教間でいまも血で血を洗う争いが続いていても、である。
 だから、私がダライ・ラマと会ってきた、というだけで、車中のだれもが、微妙に居住まいを正し、彼への敬意を表明することを忘れない。こういう人々の国であるからこそ、インドは中国政権との関係悪化を恐れず、約十万ものチベット人亡命者を受け入れ、いまもなお受け入れ続けているのだ。それがインドというお国柄であり、底知れぬ懐の深さを感じさせるのだ。

インドの現実を伝え続けてきたこの著者さん言葉だからこそ、ドスンと落ちる。

<83ページ 夢について より>
(あるサイキック・エピソードのあとに)
「(前略)山に何十年も籠もって修行してきた真摯な行者たちは、こうしたサイキックパワーを向上させ"予知”能力を獲得しているのは確かです。私自身何度も目撃しているのですから。私はあまりに忙しく瞑想の時間も十分持っていないので、未だそういう能力を開発するには到っていませんがね。ふっふっふ」
 と、法王はまことに明けっぴろげである。

ダライ・ラマ法王との対話の一部。「ふっふっふ」というのが何度か出てきたのですが、著者さんが受けたフィーリングがよく伝わってきます。

<109ページ 前世とはなにか ── ロサン・ギャッツォ師 より>
 仏教的解釈によれば、"意識"は頭の天辺あら体全体に拡がり、その働きは内的エネルギー、風(ルン)の通路を通って現われる、つまり意識の流れ、働きはこのエネルギーのチャンネル、風に乗って現れなければならないのです。この内的エネルギー、われわれが"風(ルン)"と呼ぶエネルギーは、意識がそれに乗って働く乗り物に似ていて、この風エネルギーを私たちは必要とするのです。意識は対象に出会った時はっきりとします。それは電流が流れると電球がつくようなものです。同じように微妙な風エネルギーで意識が目覚め、両方がある対象に会った時、意識が明瞭になります。
 私たちはどんな装置によっても意識を見ることはできませんが、風エネルギーは見ることができるなにものかであるといえます。
 しかし、この風エネルギーは外界で接するいわゆる風のようなものではありません。風エネルギーは私たちの体の中に在りますが、"心"の乗物として働く風はその性質において非常に微妙なものなのです。風エネルギーがさらに活発になると、脳にメッセージを送り、脳細胞を動かします。それが科学者のいう脳波というものなのです。しかし波のように動いているそれが意識なのではありません。それは脳細胞を動かす要因なのです。風エネルギーと意識というこの二つのものは不可分えあり、ともに作動し、互いの関係は、風エネルギーは非常に微妙かつ明澄な資質を有していると同時に、意識も非常に微妙でありこの明澄な資質を持っているといったものです。
 ですが、風エネルギーは対象を意識しているという属性は持っていないのです。ですから、意識しているということは、"心"それ自身の特別な資質といえるのです。
(ロサン・ギャッツォ師:ダラムサラ仏教論理大学学長ゲシェー・ロサン・ギャッツォ氏)

チベット仏教でいう、この風(ルン)と脳波の話、うちこは非常に興味深く読みました。

<116ページ 前世とはなにか ── ロサン・ギャッツォ師 より>
 仏教のカルマ理論、思想は非情に深く、大きな広がりを持っています。
 ヒンドゥ教のカースト制は前世から定められたカルマに基づく神聖犯すべからざる秩序、価値基準となってしまっていますが、仏教には本来そういうカルマ思想はありません。

はい。

<127ページ 闘う尼僧 より>
 1989年3月にもラサで大きなデモがつぎつぎに起こりました。
 私は同じ僧院の尼僧16人とそのデモに加わりました。ほうぼうの尼僧院からも続々と仲間が参加し、五日間続けてデモを行ないました。ただ黙々と行進し、坐り込んだりしていただけだったのに、五人の尼僧は捕えられ、警察署に連行され、そこで全員素裸にされたのです。
そしてひどく殴られました。

ここから、少しつらい引用が続きます。これは、チベット尼僧テンジンさんのお話。

<136ページ 酷い拷問 より>
 中国兵のやり方はとても巧妙で、チベット人に私たちを殴らせ、その様子を大勢のチベット人に見物させるのです。同じチベット人同士の間に憎しみを植えつけるのが目的なのです。
 私は本当に死を覚悟していましたから、どんなことをされても彼らには屈服すまいと心に誓っていました。その決意が拷問への恐怖を押さえつけていたのでしょう。恐怖心は感じませんでしたが、なにをされるのかを考えるゆとりもなかったのです」

 テンジンさんは驚くほど冷静に、澄んだ声で淡々と語り継ぐ。二人の通訳の方がむしろ込み上げる怒りを押さえつけていた。

うちこも通訳と同化。

<138ページ 酷い拷問 より>
 彼女(婦人警官)たちは、それぞれに大きな杖、電気ショック棒、麻縄を携帯し私を取り囲み、うむをいわさず私を素裸にしました。私は一糸もまとわず、ふたたび両手両脚を縛られ床に這わされたのです。そしてむちゃくちゃに殴られました。私はとうとう気を失ってしまいました。やっと意識を取り戻し、あたりを眺めると、房の外から逮捕された何十人ものチベット人が私を見守っていました。その人たちは見せしめのために、むりやり、真裸で床をのたうっている私を見させられていたのです。そんな姿の尼僧を見せつけることで、僧侶への尊敬心を民衆から消し去ろうとしているのです。

チベット仏教に対する拷問です。

<146ページ 酷い拷問 より>
 彼女は最後に、チベットのおかれている状況を切々と訴え、日本人に告げてくれといった。

「いまチベットでは、夫婦に子ども一人という産児制限が強制されています。以前は大きな都市や町だけだったのが、地方の小さな村々にまでそれが強制され、チベットでは女性がむりやり断種させられています。これは本当に由々しいことです。中国政府は、チベットのためにではなく、チベット国民の人口を減少させチベットにおいてすら私たちを少数民族化しようとしているのです。実際に、今ですら中国人の数は私たちチベット民族の数を上まわり、その数はますます増える一方です。このことがとても心配でなりません。
 また、チベットの資源の奪取行為です。濫伐した材木の大半は中国に運ばれ、環境破壊は年ごとにひどくなっています。このままでいったらチベットは荒廃し、国全体が駄目になってしまうにちがいありません。
 また生活面では、いい仕事はすべて中国人に独占され、チベット人は失業し、どんどん貧しくなっています。都市のとんの一握りの人間だけが派手な消費生活を送っているだけで、それも外国の観光客に見せるのが目的にすぎません。
 良質の生産物はすべて中国に輸出され、粗悪な産物だけをチベットに回しています。
 観光客は自由にチベットを旅行することは許されず、八千以上あったチベット寺院の九割が破壊され跡形もない状態なのに、ラサやその近郊に残されたわずかな寺院を修復して観光客用に公開し、いかにも仏教を保護しているかのように外国人を欺いているにすぎません。

歴史も文化も宗教もある民族を、「亡くせる」と、「今日、いまの時代に」考えていること自体が不思議でなりません。

<189ページ 『チベット通信』1994年7月号 より>
 チベット民族蜂起三十五周年記念日ダライ・ラマ法王の声明

(前略)
 私は、チベット問題の平和的な交渉による解決を、中国政府との直接的な関係を通じて見出してゆくという立場を、維持し続けます。しかし、こうしたアプローチをとっても、中国側は口先だけの対応に始終するばかりです。したがって、つぎのようなことが明白にいえます。政治、経済両面の外圧が増大することによってのみ、中国の指導部をして ── 口先だけの対応でなく ── チベット問題を平和的、友好的に解決することが急務だとの感触を抱かせ得るのです。チベットの悲劇を救うには、人権、自由、民主主義を養護する立場にある世界各国の政府やNGOが、断固たる態度で一斉に働きかけるしかないのです。

日本人が見るべきサイトとして、以下を紹介しておきます。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所

<192ページ 『チベット通信』1993年1月号 より>
 チベットの環境破壊と中国人の大量流入

 中国が四十年以上にもわたってチベットを占領し続けている結果、チベットにおける生態系のバランスは、著しい変化に曝されている。大規模な森林伐採、野生生物の乱獲、そして核廃棄物の投棄などが、チベットのデリケートな自然バランスを崩しているのだ。
(中略)1949年から1950年に中国がチベットへ侵攻して以来チベットの森林の40パーセント以上が、伐採されてしまったのだ。1985年までにチベットから切り出された木材の価値を合計すると、概算で540億ドルを超えるほどにもなる。

「地球の資源は中国の資源でもありますよね。しかも、おたくご近所ですが、なんでまた?」「そんな疑問も通用しないなにかって、なんなの?」中国政府に対して素直にきいてみたくなりました。


チベット国内に真の仏教教育が受けられる僧院がほとんどないのが現状」と書かれている、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所の「僧院の教育」という内容をご自身の声で訴えたのが、テンジンさんの言葉。
中国にはすばらしい尊敬すべき考え方や能力、財産がたくさんあるのに、なぜ。区別欲、覇権欲、なにに紐づいた現実なのだろう。インドも同様です。この著者さんの本のどれもが、この煩悩による産物について語られています。

最後に、これまでに読んだ山際素男さん関連本へのリンクをまとめておきます。チベット関連の本はこの本がはじめてだったので、以下はすべてインド関連書籍です。

▼紙の本


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