うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

チベット 生と死の知恵 松本栄一 著

自由が丘のブックオフで買いました。350円でした。
モノの値段というのは不思議なものです。スターバックスラテくらいのお値段で、とてもありがたいチベットの知恵を授かることができます。あまり本が安いと、どうもヘンな感じがします。図書館で借りるほうが、モノの値段を意識しないで済むので、気持ち安らかです。
この著者さんは写真家で、モノクロの写真が小さく載っていますが、きっとカラーだとすごく美しいのだろうなぁと想像できる写真ばかり。何度かにわたるチベットの旅。ダライラマ、その周辺の人びととの対話を通して学ぶ、チベットの生きる知恵が、とてもわかりやすく、壮大すぎて疲れない旅行記としてまとまっています。いままで「めっちゃ仏教の国」ということ以外は不勉強でまったく知らなかった、チベットの歴史の勉強にもなりました。

今回もいくつか、心にメモしたいと思った箇所を引用紹介します。いろいろな人の言葉が登場します。

<52ページ ダライラマとその民族の将来 より>
ダラムサラの町中で出会ったチベット青年はこう言う。
ダライラマは尊敬しています。とてもグレートな人です。しかし彼の思想とその行動は出家の考えであって、人類が皆、幸せになるように願うということです。彼は自分たちの国を占領した中国人の幸せをも願っているでしょう。それどころか犬や鳥や牛の幸せだって願っているのです。でもラサではチベット人は、殺されたり、牢屋に入れられたりしています。現実は仏教の思想通りにはいきません。戦いがあれば人は死にます。食べ物がなくても人は死にます。私たちはそのところを考えなければ、チベットの独立などとうてい無理でしょう。独立は形而上学でなく、現実の問題なのです」
これが国家・民族のリーダーとしてのダライラマを一部のチベット人は理解していても、不満をもつ点だ。もちろんダライラマは自分に対する民族の熱い願いは、十分すぎるほどわかっている。それでも彼は王であるより、僧でありたいと思っている。そして彼は戦うことではなく、平和を説き続けることがチベットの独立を得る唯一の方法であると確信しているのだ。

「王であるより、僧でありたい」というのは、とても大変なことだろうなぁ。

<79ページ 人間についての九つの質問 より>
(著者)「真実の愛とはどのようなものとお考えですか」
ダライラマ)「真実の愛ですか。私の考えでは、それは基本的に社会が発展するためのキーワードだと思います。普遍的な愛の根底には、普遍的な責任感がなければいけません。そうした気持ちが、すべての人びとの幸福へと通じるのです。他人のために、特別の責任感をもって貢献する。それが大切なのです。
また私は、宗教的な事柄としてのみ普遍的な愛情をとらえる必要はないと思います。信仰や宗教なしに、普遍的な愛を育むことは可能だと思うからです。
あなたが感覚をもつすべてのものへの愛と哀れみ、特に敵への哀れみをもつこと、それは真実の愛であり、哀れみです。友人や妻や子供に抱く種類の愛は、本来の優しさではありません。それは愛着です。それは絶対ではないのです」
 
(著)「真実の心とはどのようなものでしょうか」
(ダ)「現象としての人生の真実を見きわめるのは、真実の心です。現象の性質を誤って知覚してしまう、あるいは目的のない意識、それらの解毒剤としての役割を果たすのは心です。
無知を取り除くことで、それによって引き起こされた欲望や憎しみなども取り除くことができます。人は汚れた行いや業(カルマ)の積み重ねをやめることができます」

「普遍的な愛の根底には、普遍的な責任感がなければいけません。」という言葉を、メモ。

<128ページ 聖山を巡る──カイラース山 1993年 より>
食後は倒れるようにして眠りにつく。テントに入っても、高地のために体が暖まらない。寒い。人が生きていく限界のような場所だと思った。そしてチベット人が生きることにとりわけ強いのは、この風土からきているのだろうと思った。
(中略)
しかしいま、私にとっての数少ない大地との対話だったと、そしていずれ土に帰っていく私にとって、大切な行為だったと思えるのだ。

いずれ土に帰る自分が、大地と対話をした。というのがなんだかとっても印象的でした。

<157ページ 名医イシェー・ドンデン──ダラムサラ 1995年 より>
(イシェー・ドンデンさん)
チベット医学の特徴はなんといっても、心理療法が取り入れられ、生かされている点です。仏教、とりわけ人体の生理面に関して独特の考え方をもっている密教の瞑想法が、治療システムに組み込まれ、生薬の薬効とともに人体の内蔵機能の回復に役立っています」
(著者)「密教の瞑想が医療と関係しているのですか」
「関係しているというレベルではなく、そのものが取り入れられているのです。いずれにしてもチベット医学のシステムは文明病といわれる成人病の予防に役立っています」

「人体の生理面に関して独特の考え方をもっている密教の瞑想法」というだけでは具体的に「こうゆうことか」と結びつけることはできませんが、「ゴミを捨て、よいものが入る場所をつくる」という観想は、内臓のなかのゴミを捨てることにも繋がっているのでしょうか。

<173ページ 輪廻転生を見つめる より>
ゲルク派の高僧ロチュー・リンポチェ)
私たちは一生のうちにさまざまな苦しみを味わいます。たとえば美しい恋人ができても、その恋人とはどこかで別れなければなりません。幸い結婚できたとしても、どちらかが必ず先に死にます。美しい恋人を得た瞬間から、別れが待っているのです。
こういった種類の苦しみから、病気のような肉体的苦しみまで、人間の一生にはさまざまな苦しみがありますね。では、それらの苦しみの真の原因は何であるのか。どうすればこの苦しみから解放されるのか。しっかり考えたことがありますか?
繰り返しますが、まずは苦しみから脱したいという切実な思い、「出離の心」が大切です。そして、この世の苦しみから解放されるために、少なくとも肉体として生まれてきた自分のはかなさを自覚し、いまある自分自身への執着をなくすことが大切です。

「慈悲の心」よりもまず、「出離の心」であると話されています。

<188ページ カーラチャクラの世界──スピティ地方、タボ 1997年 より>
1997年6月、インド北部のチベットと隣接するタボ村で「カーラチャクラ灌頂」が行われることになった。カーラチャクラ灌頂とはダライラマだけがその儀式を執り行うことができる、チベット密教の最奥儀、無上兪伽タントラの秘儀である。
(中略)
おそらくダライラマは、この物騒な教典(カーラチャクラ)に書かれている、人類は滅亡の縁に立っているという強い警鐘の意味で、この大灌頂を開催していると思われる。そしてチベットそのものがいま滅亡の聞きにあり、それを救いたいという願いがこの儀式のもうひとつの目的なのだ。

日本で宗教に悪用されたハルマゲドンも、この教典に載っているそうで、なので「物騒な教典」と表現されています。

今年の初夏から起こっているさまざまなことに、ニュースを見ていても実は本質を知らなかったので、このようなハンディな本で学ぶことができて、ブックオフに大感謝。
僧侶としてのダライラマと、法王としてのダライラマ。敵への哀れみと、自国を守ることは執着なのか、という思いのなかで生きる仏様。テレビで見られることが、むしろ不思議に思えてきました。

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