「日本はアナウンスが多い。電車でもアナウンスばかりしている。うるさい」
数年前に知人Nさんの弟さんがクロアチア出張から戻った直後に、このように言っていたそう。うなずきながら、わたしは視覚的にも案内と但し書きばかりで非常に疲れるという話をしました。
Nさんは
「アナウンスをすると多くの人が言うことを聞くから、
効力があるということになって、で、アナウンスをするのだよね」
と言っていて、そのときはそうかなぁ…と思っていたけれど、いまは本当にそうだなと思います。
コロナウィルス登場以前から、電車のしつこいアナウンスはほんのひと握りの苦情に対応したものだろうと思うことがあったし、3分くらいの停車でも細かな事情説明のようなアナウンスがある。
もともとそんな日常だったので、わたしは情報を受け取った後、いったんすぐに装飾を削り落とすのが癖になっていました。目も耳も物理的にふさぎようがないので、受け取った後にすぐに削り落とす。この癖をつけておいてよかったなと、最近しみじみ思います。
「なぜこの方法で伝えようとするのか」
事実だけを受け取るためには、このフィルタを常に発動させておくのがコツ。電車のアナウンスの場合は、それしかないからそうしている。
メディアの場合は、ほんとうに大切なことをお笑いタレントやこの人誰?という人に話させることは、設定上ありえない。
タレントは気楽に話を聞かせることが役目。アナウンサーは時間内に聞き取りやすい声で話すことが役目。
もう2年くらい前から、NHKのネットニュースですらタイトルや文章の書き方で注意を集めるべく道徳を欠いた技巧を凝らすようになったので、いまは会見の音声くらいしか信用できるメディアがありません。
音声は音を音を乗せているだけなのですが、それですらカットの仕方で変わるので、注意して聞き取らなければなりません。
それでも、前提でフィルタしてしまうというのは、なにげに大切なことと思います。