うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ダルマのこと

先日、ヨガ仲間のかたから、実際にあった事件を題材にした小説の感想の中でわたしが書いた「なにかよからぬことをしようとするときにブレーキがかかる。それをダルマだと思っている」という考え(解釈)が印象的だったといわれました。今日はそのことについて書きます。


▼きっかけになった本はこれです

ここ2年以内に出版された新しい小説については、どれも物語の展開に触れないように感想を書いています(ネタバレしないように書いています)。

 


わたしは「よいことをしよう」よりも「わるいことをしない」のほうが、むずかしいと思っています。わたしはヨガをはじめた頃、売り上げ数字を追いかける仕事をしていました。ここまで踏み込めば数字は獲れるけど…という葛藤が日々ありました。犯罪には至らない範囲での善悪、グレーなことが、日常にはたくさんあります。

そんな思いとともにヨガを続けたのちに「ダルマ(Dharma)」について知り、わたしはこれまでにない種類の気持ちの溶解を感じました。タゴールの以下の解説がわかりやすいかと思います。

「ダルマ」という語の原義は、われわれをしっかりと【真理に】結びつけて、最高の幸福へとみちびく、あの原理・法です。ですから、人間に「ダルマ」という語を用いるときは、その人がほんとうにどんな人であるかを表わす最上のきめてです。(※引用元本文は きめて に強調点)人は「ダルマ」を拒否して、自ら動物や機械になることもできます。またそうすることで自らを傷つけることなく、外的・物質的知見からみた権力や富を手中にすることさえできます。けれどもこれは、人間としては、その人にとって死よりもずっと不幸なことです。わたしたちの聖典にはこのように書かれています──「ア・ダルマ(ダルマの否定)によって、人は栄え、望むものを得、敵を征する。けれども根本においては滅びているのだ」と。(「文明と進歩」<1924年、中国における講演>『タゴール著作集』第八巻所収) (森本達雄「ヒンドゥー教 インドの聖と俗」 232ページより)

ヨガをしていると「聖性」や「浄化」という言葉のほうが練習のモチベーションを上げてくれやすいから「ダルマ=よい方向へ導いてくれるもの」というふうにプラスに解釈しやすいのだけれど、わたしの場合は実感として「滑り止め」のはたらきをありがたく感じています。

 

 

これまでの自分をざっくり振り返ると、

 

【1】ヨガを自己啓発的な知識としてつまみ食いからはじめてどんどん消費
 ↓
【2】自分の外面的なキャラクターとしての「ヨギー」を手放したくなくて先鋭化
 ↓
【3】心の滑り止め・狂い止めとして日常に取り込んでいくことになった

 

わたしはヨガを、こういう感じで続けてきました。

【2】はできればスルーしたいプロセスですが、ヨガはさまざまなキーワードとともにブームが何周もしているので【1】⇔【2】のループをしては抜けて、戻り…という人も少なくないように思います。なので今日の話は【3】に片足を突っ込んでいるくらいでないと、いまひとつピンとこないかもしれません。

 


ヨガがなくてもやっていける人は必要がないのであって、ヨガ以外の方法で道徳・倫理的に間違ったことをしないですむブレーキを搭載しているから、やめられるのかなと思うことがあります。やらなくて済むならそれはそれですばらしいこと。


わたしは根無し草なので、ヨガをしていないと不都合なことが二個三個重なったときにグリップを効かせられる自信がありません。友人からはブレないとか軸があると言われたりするけれど、「自分は根無し草」という認識が強くあることが、そういうふうに見えるのだと思います。根がずっと緊張しているだけで、わたしに軸はありません。だから、ダルマに則りたい、従いたいという気持ちが起こる。

 

ヨガが心の滑り止めに変わっていったのを認識した頃に、そんなことを書いています。

わたしがブレーキをありがたがる背景には、もともと資本主義的に暴走しやすい種類の仕事をしていたから。

「アクセルだけ」「ブレーキだけ」の教えのほうが問題解決型の文章にしやすくてわかりやすいけれど、精神面での練習の成果は「アクセルにもブレーキにもなる」というのが実のところ。「ダルマ」とともにあるというのは、わたしにとってはそういう感じです。