うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

東京を生きる 雨宮まみ 著


不安を思いっきり前面に出しながら、下品なふてくされ感のない絶妙なバランスの文章で、読んでいてドキドキしました。無理に美化したものは、しょせん汚いということを知ったうえでの苦しみのようなものが伝わってくる。くるのです。
自分の評価を自分で疑い続ける思考を普遍的な題材で書くというのはかなり技術のいることだと思うのだけど、このエッセイはすべてのテーマで一定のトーンが保たれていて、急にポジティブに振りきったりすることなんて絶対ないから大丈夫、どうぞ続けて読んでください。みたいな安心感がある。これが、ひとつひとつすごく短いエッセイで綴られているのだからすごい。

これは小説じゃないと無理じゃないかと思うような長い経緯も、他人と自分とのパワーバランスの描写の精密さでサッと進んでいく。ヒリヒリとかではない、黄色みがとれかけてきたアザをうっかり押しちゃったときのような「ああぅ。その痛いとこ、いま押してしまうか自分」みたいな鈍痛。読む人の年代によっては、ヒリヒリするかもしれない。

わたしは東京にいてもこのなかにあるエピソードのような買い物はしないし、この本にあるような夜遊びもそんなにせずにやってきて、価値観も境遇もかなり違う。でも、すごく沁みる。
冒頭の「福岡」という街に対する描写の時点で、いきなりつかまれました。福岡の街を歩くと緊張を感じる理由がわかったように思うのです。それは京都や名古屋で感じる、戦国時代やさらに昔に栄えた都市で感じる緊張とは違うもので、普段頭の中でも言語化していなかったような思いをズルズルと引き出される。
普段はいちいち考えないような劣等感が、うぁわその流れで来ますか…という展開で差し出される。でも美しい。いやな不意打ちではない。


「女友達」という物語がある。このラストはなんだか泣ける。やったことも、やられたこともある。
「優しさ」という物語にある「生きていることは、疲れる。」からのくだりを読んでいると、そういう思いが発動するときのために、神なんていうアイデアを世界中で採用しているのではないか、きっとそうだ。という考えにたどりつく。
肉体よりも精神の比率が多すぎるときの描写は、精神の重量感が伝わってきてどきどきする。

 そのときどきで、面白いことはあったし、こうしたい、こうなりたいという向上心もそれなりにある。嫉妬心が強いから、妬むくらいなら乗り越えたい、と思う。
 だけど、本当はすべてがめんどくさい。嫉妬することですら、いちいちそれを処理していかなければならないなんて、めんどくさすぎる。心はこちらの意思とは関係なく、絶え間なく動き、美しいものに吸い寄せられ、醜いものにショックを受ける。お腹がすくのと同じように、快楽や美しさをくれとうるさくわめきたてる。つらければいつまでも泣いている。聞き分けのない子供を飼っているようだ。
(「努力」より)


お風呂場で足にスクラブをかけているときなど、これは歩くための肉体なんだよな、と変な気持ちになる。太い骨があり、筋肉がある。歩くためになんて、そんなに使っていない。少し曲がっている自分の足を見ては、本来の機能を無視したものが、この身体を乗っ取っているように思えてくる。歩いて、走って、嵐を避けて、生殖をするための肉体に、嵐を待ち望む心が乗っている。
 噛み合わないものが同居したいびつな肉体が、嵐の中に立っている。そして、静寂と嵐を、交互に求め続ける。
(「静寂」より)

自分のなかの不均衡と社会の中での不均衡が、もうやめてというくらい精密に拾い出されている。
自分で生計を立てていても、この人はどうしてこんなに罪悪感でいっぱいの日々を送らなければいけないのだろう。そんなふうに思った瞬間、その思いがブーメランのように自分のもとに返ってくる。うわ…これはわたしにもずっとある問いで、じっくり見るのがつらい種類のものではなかったか。
わたしは自分でここまで見ることは、できないな。心を見るエネルギーって、それ以上のものをどこかから引っこ抜いてこないといけなくて、それはやっぱり時間をかけないとすごい消耗戦になるのだと思う。

東京を生きる
東京を生きる
posted with amazlet at 17.04.08
雨宮 まみ
大和書房