うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「思いやり」という暴力 哲学のない社会をつくるもの 中島義道 著


よく企業の情報ページにあるフレーズで「ご意見、ご要望」という二語の続きを見るけど、「意見」と「要望」はかなり違うのと、「要望」ってのはそもそも単語として二文字の間にずいぶん開きがある。「要するもの」と「望むもの」では、だいぶ違う。「みなさまの貴重なご意見」なんて簡単にコピペしちゃうけど、貴重かどうかは相手による。
こんなふうに、わたしは便宜上の平等と思いやりの境界でよく悩みます。そういうことが気になってしまうわたしにとって、この本には食い入る要素がいくつもありました。

文庫本へのまえがきに

(ネットの普及で)
どんなアホでも、どんなマヌケでも、虚栄心と他人を蹴落とす執念さえあれば、しっかりとした文章が書け、しっかりした論文さえ書けるようになった。

とあります。どきどきしますね。


この本は、前に読んだ「対話のレッスン 日本人のためのコミュニケーション術」の中で一部が引用されており、全部読みたくなって読みました。
日常で「よかれ」という考えをなるべく絶つようにしても、それを受ける場合は相手の意図を汲み取ったほうがよいこともわるいこともあり、なので「嫌われる勇気」という本が売れたりするのだと思うのですが、以下の箇所はたいへん沁みる。

 相手の立場に立って「よかれ」と思ってなしたことが、逆に相手に憎まれるかもしれない。相手に害悪をもたらすかもしれない。何をしても、最終的には「読めない」のが人間関係というものである。純粋な思いやりは、こうした場合をも見越してある行為をすること、そして結果に対してはきちんと責任をとることである。
(「思いやり」と勇気 より)

大げさにおわびをしながら同じ迷惑行為を繰り返す人の凶暴性には「許さないと、許さないぞ!」という原則があって、親切な人の思考には「よろこばないと、許さないぞ!」という原則が含まれる場合もあって、なんにせよ「受け取ると決める」ときが最大の勇気の出しどころかもしれません。



以下の「あと数パーセント西洋的な言語観を採用すれば」のところは、わたしも同じようなことを考えることがあります。

 何度でも言うが、私は祖国を現在の欧米の一国のように変革したいわけでは毛頭ない(絶対ならないから安心なのであるが)。私は、言葉を、<対話>を圧殺するこの国の文化にあと数パーセント西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しのよい社会が、個人が自律しみずからの責任を引き受ける社会が実現するのになあ、と思うだけなのだ。
(わが国は絶対に欧米社会のようにはならない より)

「個人が自律しみずからの責任を引き受ける」というのができないと、しわ寄せが「そのとき元気な人」に向かってしまって、組織体にしたときには体力が落ちるんですよね…。


自分に対して都合よく振る舞ってくれれば「ソウルメイト」、そうでなければ「縁のない人」というご都合主義のヨガやスピリチュアルにハマったり、グレーゾーンに堪えられない大人がこんなにも多いことを子どもの頃は想像もしていなかったけど、実際これがリアルな社会と感じるまさかの30代を過ぎての、いま。
中1のときは中3が大人に見えたのに…、みたいな話だけど、表面的にマイルドな状況が「大人の社会」と思ったらそれは落とし穴ってことばかりなので、いろいろ気をつけたい。


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